桑名城 その2 [お城踏査]
桑名城跡は現在九華公園になっています。
堀と本丸です。
神戸櫓跡です。
公園の図です。
広い堀があることがわかります。
こちらは桑名城の絵図です。
四重の天守と三重の櫓など多くの櫓が林立していました。
関ケ原合戦後に徳川四天王の一人本多忠勝が10万石で入り築城しました。
本多忠勝の銅像です。
本多氏が姫路城に移ると、久松松平氏、奥平松平氏、久松松平氏が入りました。
幕末には、尾張徳川氏の支藩である高須藩から松平定敬が養子に入りました。
いわゆる高須四兄弟です。
高須藩とは尾張徳川家の支藩で本家に後継ぎがいないときに養子を出す家で、御三家のような存在でした。
幕末の高須藩には高須四兄弟がいて、慶継は尾張徳川家、茂徳は一橋家、容保は会津藩、定敬は桑名藩を継ぎました。
実際には男子はあと二人いて、高須藩と浜田藩を継ぎました。
四人は幕末の動乱で活躍したため、高須四兄弟として有名です。
松平容保は京都守護職として薩摩、長州と戦い、桑名藩も幕府方として戦いました。
そのため桑名城は戊辰戦争では、辰巳櫓を焼かれました。
明治以降は四日市港の整備のため、桑名城の石垣は取り壊されて運ばれました。
そのため本丸や二の丸には石垣はほとんどありません。
また二の丸も小さくなりました。
本丸の神戸櫓跡です。
神戸城(三重県鈴鹿市)の天守を移築したといわれています。
絵図に見る神戸櫓です。
三重櫓でした。
説明です。
(続く)
堀と本丸です。
神戸櫓跡です。
公園の図です。
広い堀があることがわかります。
こちらは桑名城の絵図です。
四重の天守と三重の櫓など多くの櫓が林立していました。
関ケ原合戦後に徳川四天王の一人本多忠勝が10万石で入り築城しました。
本多忠勝の銅像です。
本多氏が姫路城に移ると、久松松平氏、奥平松平氏、久松松平氏が入りました。
幕末には、尾張徳川氏の支藩である高須藩から松平定敬が養子に入りました。
いわゆる高須四兄弟です。
高須藩とは尾張徳川家の支藩で本家に後継ぎがいないときに養子を出す家で、御三家のような存在でした。
幕末の高須藩には高須四兄弟がいて、慶継は尾張徳川家、茂徳は一橋家、容保は会津藩、定敬は桑名藩を継ぎました。
実際には男子はあと二人いて、高須藩と浜田藩を継ぎました。
四人は幕末の動乱で活躍したため、高須四兄弟として有名です。
松平容保は京都守護職として薩摩、長州と戦い、桑名藩も幕府方として戦いました。
そのため桑名城は戊辰戦争では、辰巳櫓を焼かれました。
明治以降は四日市港の整備のため、桑名城の石垣は取り壊されて運ばれました。
そのため本丸や二の丸には石垣はほとんどありません。
また二の丸も小さくなりました。
本丸の神戸櫓跡です。
神戸城(三重県鈴鹿市)の天守を移築したといわれています。
絵図に見る神戸櫓です。
三重櫓でした。
説明です。
(続く)
2016-06-20 16:40
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コメント(5)
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ようやく家に帰って来ました。^^
今日は蒸し暑かったね。^^:
by hatumi30331 (2016-06-20 16:52)
京都守護職の容保はなにかの本で読んでしってます。
でもこんな生い立ちだったとは知りませんでした。
by 川崎工場長 (2016-06-20 17:37)
いろいろな家があるがあるのですね。
今日も蒸し暑い。
においに敏感なにゃんこ、でもノーマットの電源をオンにして慣れさせようとしています(^_^;)
by green_blue_sky (2016-06-20 17:38)
海のそばにあるお城は、水を利用して守りますね。
ここも堀が広く、水が最大の防御なのですね。
by ナツパパ (2016-06-20 17:56)
ありがとうございます。
クチナシの花がいい香りで匂って
くるでしょう。
by ryuyokaonhachioj (2016-06-21 09:45)