晴明白龍大神 [神社]
井田城@愛知県岡崎市 [お城踏査]
井田城は愛知県岡崎市井田町城山にある中世城郭です。
西から見た図です。
崖の淵にありました。
今は公園になっています。
岡崎市街にあるものの、公園になっているためよく形を残しています。
石碑です。
大きな石碑です。
石碑の裏面です。
井田城の来歴が記されています。
酒井氏が城主でした。
酒井左衛門尉忠勝、康親、忠親、忠善、忠次の五代が城主でした。
岡崎城の北の防御を担っていました。
明応2年、天文4年、永禄3年などの戦いがありました。
酒井忠次は徳川四天王の一人として、徳川家康を支えました。
土塁の上に建つ神社です。
稲荷神社です。
江戸時代に書かれた『家山樵談』や『三河聰視録』に掲載されている絵図により、方形の居館であったことがわかっています。
以前は50m四方の方形館と思われていました。
最近の研究では、主郭は長方形で、馬出状の副郭を持ち、折れのある塁線で横矢掛かりのある軍事的な城であったことがわかってきました。
西から見たところです。
城山公園になっていますが、一段低くなっている道路は堀の跡です。
西から見た図です。
崖の淵にありました。
今は公園になっています。
岡崎市街にあるものの、公園になっているためよく形を残しています。
石碑です。
大きな石碑です。
石碑の裏面です。
井田城の来歴が記されています。
酒井氏が城主でした。
酒井左衛門尉忠勝、康親、忠親、忠善、忠次の五代が城主でした。
岡崎城の北の防御を担っていました。
明応2年、天文4年、永禄3年などの戦いがありました。
酒井忠次は徳川四天王の一人として、徳川家康を支えました。
土塁の上に建つ神社です。
稲荷神社です。
江戸時代に書かれた『家山樵談』や『三河聰視録』に掲載されている絵図により、方形の居館であったことがわかっています。
以前は50m四方の方形館と思われていました。
最近の研究では、主郭は長方形で、馬出状の副郭を持ち、折れのある塁線で横矢掛かりのある軍事的な城であったことがわかってきました。
西から見たところです。
城山公園になっていますが、一段低くなっている道路は堀の跡です。
伊賀八幡宮 [神社]
伊賀八幡宮です。
岡崎市伊賀町にあります。
松平四代親忠が、子孫繁栄・武運長久の守護神、氏の神として文明2年(1470)に建てました。
親忠はその後大樹寺も建立しています。
親忠の4代後が徳川家康です。
境内の図です。
神橋、随神門、本殿などがあり、大きな境内です。
祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、徳川家康です。
摂社は、上総社 天日鷲之命、牟久津社 大奈持之命、讃岐社 大物主之命、若宮社 若宮八幡、
伊勢社 天照大御神、皇祖神 天照大御神、住吉社 筒之男三神、日宮社 日宮神を祀ります。
随神門です。
重要文化財です。
朱色の橋が映えます。
随神門の蟇股の彫刻です。
龍です。
虎です。
見事な彫刻です。
猿です。
随神門内にある東照大権現の石像です。
徳川家康のことです。
拝殿です。
寛永13年(1636)三代将軍徳川家光により建てられました。
重要文化財です。
御供所です。
神様のお供物を調整したり、物を置いたりするところです。
こちらも重要文化財です。
絵馬です。
三つ葉葵の家紋入りです。
岡崎市伊賀町にあります。
松平四代親忠が、子孫繁栄・武運長久の守護神、氏の神として文明2年(1470)に建てました。
親忠はその後大樹寺も建立しています。
親忠の4代後が徳川家康です。
境内の図です。
神橋、随神門、本殿などがあり、大きな境内です。
祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、徳川家康です。
摂社は、上総社 天日鷲之命、牟久津社 大奈持之命、讃岐社 大物主之命、若宮社 若宮八幡、
伊勢社 天照大御神、皇祖神 天照大御神、住吉社 筒之男三神、日宮社 日宮神を祀ります。
随神門です。
重要文化財です。
朱色の橋が映えます。
随神門の蟇股の彫刻です。
龍です。
虎です。
見事な彫刻です。
猿です。
随神門内にある東照大権現の石像です。
徳川家康のことです。
拝殿です。
寛永13年(1636)三代将軍徳川家光により建てられました。
重要文化財です。
御供所です。
神様のお供物を調整したり、物を置いたりするところです。
こちらも重要文化財です。
絵馬です。
三つ葉葵の家紋入りです。
名古屋城本丸御殿復元工事の現況 平成28年6月下旬 [名古屋城本丸御殿復元工事]
名古屋城本丸御殿復元工事の現況です。
素屋根内部の公開が始まりました。
素屋根内部工事公開は昨年の9月から中止されていましたが、6月11日から再開されました。
手前の工事中の屋根は上洛殿です。
右の三角の破風は孔雀の間です。
手前が上洛殿です。
奥に見える屋根は上御膳所です。
手前は上洛殿です。
中央の破風に飾りのある屋根が対面所です。
その左が孔雀の間、その左が上御膳所です。
中央の屋根は上御膳所です。
上御膳所は第3期工事ですが、既に屋根が出来上がっています。
これは上御膳所は第2期工事の梅の間と接続するために第2期工事に合わせて先行して工事していたためです。
ここの場所に御湯殿書院が建つ予定です。
その奥に黒書院が建ちます。
上洛殿の間取り図です。
上段の間、一の間、二の間、三の間、松の間、納戸の間の六つの部屋から構成される大きな建物です。
右は対面所、その左は梅の間、左の工事中の建物は上洛殿です。
正面の三角の屋根は孔雀の間です。
表書院です。
このアングルで見るのは初めてです。
対面所のの入側です。
天井は格天井、廊下は畳廊下ですが、シートが敷かれているためわかりません。
台所と孔雀の間の廊下です。
普段は閉まっている廊下の戸が開いていました。
台所棟はまだ公開していませんが、工事はほぼ終わっているようです。
表書院と対面所です。
来月から大相撲名古屋場所が愛知県体育館で始まるので櫓太鼓が組まれていました。
名古屋城本丸御殿は3期に分けて復元工事を行っています。
現在、2期工事まで終わっています。
2期工事では、対面所、下御膳所が公開中です。
台所も公開予定でしたが、障壁画が間に合わず、台所棟の梅の間、孔雀の間、台所は今年の秋に公開予定です。
本丸御殿の復元工事は総工費150億円です。
今年の工事の予定です。
4-6月
上洛殿は、建方を行います。
上御膳所は、壁左官工事を行います。
7-9月
上洛殿は、建方、屋根工事、壁左官工事、内部床工事を行います。
上御膳所は、壁左官工事、内部床工事を行います。
10-12月
上洛殿は、壁左官工事、屋根工事、内部造作工事を行います。
上御膳所は、内部造作工事を行います。
黒木書院は、建方を行います。
1-3月
上洛殿は、内部造作工事、屋根工事を行います。
上御膳所は、内部造作工事を行います。
黒木書院は、建方、屋根工事、壁左官工事を行います。
湯殿書院は、建方、屋根工事、壁左官工事を行います。
素屋根内部の公開が始まりました。
素屋根内部工事公開は昨年の9月から中止されていましたが、6月11日から再開されました。
手前の工事中の屋根は上洛殿です。
右の三角の破風は孔雀の間です。
手前が上洛殿です。
奥に見える屋根は上御膳所です。
手前は上洛殿です。
中央の破風に飾りのある屋根が対面所です。
その左が孔雀の間、その左が上御膳所です。
中央の屋根は上御膳所です。
上御膳所は第3期工事ですが、既に屋根が出来上がっています。
これは上御膳所は第2期工事の梅の間と接続するために第2期工事に合わせて先行して工事していたためです。
ここの場所に御湯殿書院が建つ予定です。
その奥に黒書院が建ちます。
上洛殿の間取り図です。
上段の間、一の間、二の間、三の間、松の間、納戸の間の六つの部屋から構成される大きな建物です。
右は対面所、その左は梅の間、左の工事中の建物は上洛殿です。
正面の三角の屋根は孔雀の間です。
表書院です。
このアングルで見るのは初めてです。
対面所のの入側です。
天井は格天井、廊下は畳廊下ですが、シートが敷かれているためわかりません。
台所と孔雀の間の廊下です。
普段は閉まっている廊下の戸が開いていました。
台所棟はまだ公開していませんが、工事はほぼ終わっているようです。
表書院と対面所です。
来月から大相撲名古屋場所が愛知県体育館で始まるので櫓太鼓が組まれていました。
名古屋城本丸御殿は3期に分けて復元工事を行っています。
現在、2期工事まで終わっています。
2期工事では、対面所、下御膳所が公開中です。
台所も公開予定でしたが、障壁画が間に合わず、台所棟の梅の間、孔雀の間、台所は今年の秋に公開予定です。
本丸御殿の復元工事は総工費150億円です。
今年の工事の予定です。
4-6月
上洛殿は、建方を行います。
上御膳所は、壁左官工事を行います。
7-9月
上洛殿は、建方、屋根工事、壁左官工事、内部床工事を行います。
上御膳所は、壁左官工事、内部床工事を行います。
10-12月
上洛殿は、壁左官工事、屋根工事、内部造作工事を行います。
上御膳所は、内部造作工事を行います。
黒木書院は、建方を行います。
1-3月
上洛殿は、内部造作工事、屋根工事を行います。
上御膳所は、内部造作工事を行います。
黒木書院は、建方、屋根工事、壁左官工事を行います。
湯殿書院は、建方、屋根工事、壁左官工事を行います。
願証寺 [寺院]
願証寺は、三重県桑名市長島町にあります。
お寺の全景です。
太鼓楼が目立ちます。
山門です。
門は比較的新しいです。
長島御坊と呼ばれていました。
浄土真宗本願寺派の寺院です。
長島山願証寺です。
本堂です。
入母屋の大きな本堂です。
願証寺は、一向一揆の拠点として戦国時代に織田信長と戦いました。
長島一向一揆殉教之碑が建てられています。
元亀元年に長島一向一揆が始まりました。
一揆勢は信長の弟信興が守る古木江城を攻めて、信興を討ち死にさせました。
信長により3度攻められます。
一揆勢は篠橋城・大鳥居城・屋長島城・中江城・長島城に籠城します。
天正2年にとうとう焼き討ちされました。
この時には2万人が焼き殺されたといわれます。
今の願証寺はね江戸の初期に建てられた祐泉寺を寺縁により願證寺の名称で呼ぶようになったものです。
もともとの願証寺は大寺院でしたが、今は規模は小さくなっています。
土塀の瓦はなぜか金箔瓦です。
太鼓楼です。
太鼓楼は浄土真宗の寺院にしかみられません。
報恩講のときなどに太鼓を鳴らすそうです。
お城のような雰囲気です。
願証寺の太鼓楼は上部が細くスマートです。
お寺の全景です。
太鼓楼が目立ちます。
山門です。
門は比較的新しいです。
長島御坊と呼ばれていました。
浄土真宗本願寺派の寺院です。
長島山願証寺です。
本堂です。
入母屋の大きな本堂です。
願証寺は、一向一揆の拠点として戦国時代に織田信長と戦いました。
長島一向一揆殉教之碑が建てられています。
元亀元年に長島一向一揆が始まりました。
一揆勢は信長の弟信興が守る古木江城を攻めて、信興を討ち死にさせました。
信長により3度攻められます。
一揆勢は篠橋城・大鳥居城・屋長島城・中江城・長島城に籠城します。
天正2年にとうとう焼き討ちされました。
この時には2万人が焼き殺されたといわれます。
今の願証寺はね江戸の初期に建てられた祐泉寺を寺縁により願證寺の名称で呼ぶようになったものです。
もともとの願証寺は大寺院でしたが、今は規模は小さくなっています。
土塀の瓦はなぜか金箔瓦です。
太鼓楼です。
太鼓楼は浄土真宗の寺院にしかみられません。
報恩講のときなどに太鼓を鳴らすそうです。
お城のような雰囲気です。
願証寺の太鼓楼は上部が細くスマートです。
長島城@三重県桑名市長島町 [お城踏査]
長島城は三重県桑名市長島町にあります。
説明です。
長島城は文明年間に伊勢国安濃郡の長野氏一族の伊藤重晴が築城したといわれています。
その後、長島にあった浄土真宗の願証寺の勢力が強くなると伊藤氏は滅び願証寺の支配下になりました。
そのために長島一向一揆のときには織田信長に攻められて、天正2年に落城します。
江戸時代になると菅沼氏、松平氏が城主となりましたが、増山正弥が元禄15年に2万石で入り、幕末を迎えました。
明治になると城は破却されて建物は取り壊されます。
城跡はいまは長島中部小学校の敷地になっています。
堀として利用されていた川です。
護岸工事がされていて堀の面影はありません。
小学校の校庭にある長島の大松です。
クロマツで樹齢300年です。
長島城の本丸の南西隅にありました。
今では長島城を唯一偲ぶものです。
長島城の絵図です。
本丸には御殿があり、そのまわりに二の丸がある構造でした。
天守はありませんでした。
本丸部分のアップです。
御殿は杮屋根の注釈があります。
本丸は天守はなく、二重櫓があるだけでした。
正門は櫓門で枡形虎口になっていました。
正門の脇は多聞櫓になっていたようです。
堀に出る水の手門があることは長島城の地が水郷地内ゆえでしょうか。
本丸の前には勘定所があり、二の丸には太鼓門という櫓門でつながっていました。
説明です。
長島城は文明年間に伊勢国安濃郡の長野氏一族の伊藤重晴が築城したといわれています。
その後、長島にあった浄土真宗の願証寺の勢力が強くなると伊藤氏は滅び願証寺の支配下になりました。
そのために長島一向一揆のときには織田信長に攻められて、天正2年に落城します。
江戸時代になると菅沼氏、松平氏が城主となりましたが、増山正弥が元禄15年に2万石で入り、幕末を迎えました。
明治になると城は破却されて建物は取り壊されます。
城跡はいまは長島中部小学校の敷地になっています。
堀として利用されていた川です。
護岸工事がされていて堀の面影はありません。
小学校の校庭にある長島の大松です。
クロマツで樹齢300年です。
長島城の本丸の南西隅にありました。
今では長島城を唯一偲ぶものです。
長島城の絵図です。
本丸には御殿があり、そのまわりに二の丸がある構造でした。
天守はありませんでした。
本丸部分のアップです。
御殿は杮屋根の注釈があります。
本丸は天守はなく、二重櫓があるだけでした。
正門は櫓門で枡形虎口になっていました。
正門の脇は多聞櫓になっていたようです。
堀に出る水の手門があることは長島城の地が水郷地内ゆえでしょうか。
本丸の前には勘定所があり、二の丸には太鼓門という櫓門でつながっていました。
長島城の城門 [移築城門]
桑名城 その4 [お城踏査]
桑名城 その3 [お城踏査]
桑名城本丸の絵図です。
本丸は四重の天守の他に三重の隅櫓が3基、二重櫓が1基、他に単層櫓、多聞櫓がありました。
10万石の城とは思えない豪華さです。
幕府がこの地をいかに重視していたかわかります。
二の丸と本丸は廊下橋で結ばれていました。
石垣の残骸でしょうか。
積み方も不自然です。
辰巳櫓跡です。
幕末まで残った三重櫓で桑名城の天守に代わるシンボルでした。
戊辰戦争の際にはこの辰巳櫓を焼いて落城のしるしとしました。
辰巳櫓跡にはなぜか大砲が置かれています。
天守台です。
二段に石が積まれていますが、後で積まれたものです。
天守台の登り口です。
今は危険なため入れません。
横から見た天守台です。
上になにかの記念碑みたいなものが建てられています。
そのために新たに作られたのでしょうか。
石の積み方や矢穴の形でも石垣がおかしいことがわかります。
天守の絵図です。
せめて石垣だけでも残していてくれたらと思います。
桑名藩が幕末に幕府方として戦ったためにより徹底的に破壊されてしまったのでしょうか。
天守を復元しようという声もあるようですが、まだ少数派です。
堀と石垣です。
石垣は落とし積みでいかにも後から積みました感が満載で、興ざめです。
(続く)
本丸は四重の天守の他に三重の隅櫓が3基、二重櫓が1基、他に単層櫓、多聞櫓がありました。
10万石の城とは思えない豪華さです。
幕府がこの地をいかに重視していたかわかります。
二の丸と本丸は廊下橋で結ばれていました。
石垣の残骸でしょうか。
積み方も不自然です。
辰巳櫓跡です。
幕末まで残った三重櫓で桑名城の天守に代わるシンボルでした。
戊辰戦争の際にはこの辰巳櫓を焼いて落城のしるしとしました。
辰巳櫓跡にはなぜか大砲が置かれています。
天守台です。
二段に石が積まれていますが、後で積まれたものです。
天守台の登り口です。
今は危険なため入れません。
横から見た天守台です。
上になにかの記念碑みたいなものが建てられています。
そのために新たに作られたのでしょうか。
石の積み方や矢穴の形でも石垣がおかしいことがわかります。
天守の絵図です。
せめて石垣だけでも残していてくれたらと思います。
桑名藩が幕末に幕府方として戦ったためにより徹底的に破壊されてしまったのでしょうか。
天守を復元しようという声もあるようですが、まだ少数派です。
堀と石垣です。
石垣は落とし積みでいかにも後から積みました感が満載で、興ざめです。
(続く)