幻の安土城 [お城踏査]
安土城は天守の嚆矢とされていますが、本能寺の変の後に焼失してしまい、その姿は謎です。
ただ、信長公記や安土日記などの史料により、その姿を知ることができます。
しかし、如何せん文字のみの情報なので、実際にどういう形だったのかは想像するしかありません。
近江八幡市安土町の信長の館では、安土城天守の最上階2階が復元されています。
豪華です。
天守全体の姿はいろいろと説があり、不明ですが、最上階についてはほぼこうでなかったかとされています。
5階です。
正八角形だったと言われています。
柱や天井はすべて朱漆に塗られています。
柱にはのぼり竜、くだり竜の彫刻がほどこされています。
屋根の破風です。
金箔で彩られています。
瓦は金箔瓦です。
八角形なので、屋根の形も独特です。
6階、最上階です。
外は金箔と漆に塗られています。
6階は正方形です。
外観は金箔で仕上げられ、内部は黒漆塗りです。
「天子南面」する 「四角の段」と言われ、正面の南→西→北→東と一周し天子創世の中国故事に 基づく、道教・儒教の教義を描いています。
中国創世記の帝王(3皇5帝)、老子・孔 子・七賢人などを描いています。
扉も豪華です。
欄干も金です。
軒の見上げです。
垂木も金箔で覆われています。
本当に豪華です。
焼失せずに残っていたらと思うともったいないです。
この安土城天守はスペインのセルビア万博で出展されたものです。
ただ、信長公記や安土日記などの史料により、その姿を知ることができます。
しかし、如何せん文字のみの情報なので、実際にどういう形だったのかは想像するしかありません。
近江八幡市安土町の信長の館では、安土城天守の最上階2階が復元されています。
豪華です。
天守全体の姿はいろいろと説があり、不明ですが、最上階についてはほぼこうでなかったかとされています。
5階です。
正八角形だったと言われています。
柱や天井はすべて朱漆に塗られています。
柱にはのぼり竜、くだり竜の彫刻がほどこされています。
屋根の破風です。
金箔で彩られています。
瓦は金箔瓦です。
八角形なので、屋根の形も独特です。
6階、最上階です。
外は金箔と漆に塗られています。
6階は正方形です。
外観は金箔で仕上げられ、内部は黒漆塗りです。
「天子南面」する 「四角の段」と言われ、正面の南→西→北→東と一周し天子創世の中国故事に 基づく、道教・儒教の教義を描いています。
中国創世記の帝王(3皇5帝)、老子・孔 子・七賢人などを描いています。
扉も豪華です。
欄干も金です。
軒の見上げです。
垂木も金箔で覆われています。
本当に豪華です。
焼失せずに残っていたらと思うともったいないです。
この安土城天守はスペインのセルビア万博で出展されたものです。
安土城 [お城踏査]
安土城は滋賀県近江八幡市にあります。
かつては安土町でしたが、合併により近江八幡市となりました。
歴史的地名のある市町は、合併の際には市の名称で揉めることが多いようですが、ここも安土町と近江八幡市とで市の名前で随分ともめました。
やはり安土の名は全国区です。
同じように岐阜県関ケ原町も合併できませんでした。
石碑です。
石碑と説明です。
安土城の大手口です。
発掘調査により石垣が復元されています。
発掘前は石垣の存在はわかりませんでした。
大手口は天皇を迎えるために虎口が複数あったとされていますが、果たしてどうでしょうか。
復元石垣です。
穴太積みの野面積みです。
安土城は中世城郭なので、以前は無料でしたが、所有者は総見寺です。
そのため本丸に入るのは有料です。
かつては安土町でしたが、合併により近江八幡市となりました。
歴史的地名のある市町は、合併の際には市の名称で揉めることが多いようですが、ここも安土町と近江八幡市とで市の名前で随分ともめました。
やはり安土の名は全国区です。
同じように岐阜県関ケ原町も合併できませんでした。
石碑です。
石碑と説明です。
安土城の大手口です。
発掘調査により石垣が復元されています。
発掘前は石垣の存在はわかりませんでした。
大手口は天皇を迎えるために虎口が複数あったとされていますが、果たしてどうでしょうか。
復元石垣です。
穴太積みの野面積みです。
安土城は中世城郭なので、以前は無料でしたが、所有者は総見寺です。
そのため本丸に入るのは有料です。
金森道西坊 [寺院]
西遊寺の太鼓楼 [寺院]
北村城@滋賀県野洲市 [お城踏査]
市三宅城@滋賀県野洲市 [お城踏査]
市三宅城は滋賀県野洲市市三宅にあった中世城郭です。
住宅地の中に巨大な土塁が残っています。
土塁の凹んでいるところは虎口でしょうか。
土塁の幅は5mほどあります。
土塁の外には堀がありました。
堀跡が低くなって残っています。
滋賀県の報告書にある市三宅城の縄張り図です。
城跡は半分ほど残っている様子がわかります。
方形館の典型です。
城跡は40m四方の規模でした。
永原和泉守孝房の城でした。
観音寺城の六角氏に仕えていましたが、永禄11年に足利義昭を奉じて上洛した織田信長と戦い落城しました。
その折に廃城となったそうです。
城跡の地主さんの家には市三宅城の城門と伝えられる門が移築されています。
屋根などは新しくなっています。
住宅地の中に巨大な土塁が残っています。
土塁の凹んでいるところは虎口でしょうか。
土塁の幅は5mほどあります。
土塁の外には堀がありました。
堀跡が低くなって残っています。
滋賀県の報告書にある市三宅城の縄張り図です。
城跡は半分ほど残っている様子がわかります。
方形館の典型です。
城跡は40m四方の規模でした。
永原和泉守孝房の城でした。
観音寺城の六角氏に仕えていましたが、永禄11年に足利義昭を奉じて上洛した織田信長と戦い落城しました。
その折に廃城となったそうです。
城跡の地主さんの家には市三宅城の城門と伝えられる門が移築されています。
屋根などは新しくなっています。
西尾市岩瀬文庫に皇太子殿下がお見えになりました。 [歴史雑話]
永原御殿の移築門 [移築城門]
永原御殿@滋賀県野洲市 [お城踏査]
永原御殿は滋賀県野洲市永原にありました。
説明です。
永原御殿は、江戸時代初期に将軍が上洛するときに使用するために作られたものです。
御殿又は御茶屋屋敷と言われました。
新しい説明板です。
永原御殿は、家康、秀忠、家光の三人の将軍が使用しました。
永原御殿の図です。
方形の主郭に馬出曲輪を付属した構造でした。
御殿と言う名ですが、実際には完全に城郭でした。
主郭は正方形ではなくて、台形でした。
これは新規築城ではなくて、もともと館があったものを利用したと言われます。
主郭に馬出を付属させる縄張は徳川氏の御殿の一つのパターンでした。
家光以降は将軍が上洛することがなく、貞享2年(1685)に廃止されました。
永原御殿の書院が草津市の芦原観音寺に移築されています。
また、野洲市の浄専寺には門が移築されています。
永原御殿の跡です。
水田は堀の跡です。
左の藪が御殿です。
永原御殿の遺構はよく残っていますが、何しろ酷い藪です。
私有地のため全く整備されていませんが、もったいないです。
なんとか整備して欲しいものです。
説明です。
永原御殿は、江戸時代初期に将軍が上洛するときに使用するために作られたものです。
御殿又は御茶屋屋敷と言われました。
新しい説明板です。
永原御殿は、家康、秀忠、家光の三人の将軍が使用しました。
永原御殿の図です。
方形の主郭に馬出曲輪を付属した構造でした。
御殿と言う名ですが、実際には完全に城郭でした。
主郭は正方形ではなくて、台形でした。
これは新規築城ではなくて、もともと館があったものを利用したと言われます。
主郭に馬出を付属させる縄張は徳川氏の御殿の一つのパターンでした。
家光以降は将軍が上洛することがなく、貞享2年(1685)に廃止されました。
永原御殿の書院が草津市の芦原観音寺に移築されています。
また、野洲市の浄専寺には門が移築されています。
永原御殿の跡です。
水田は堀の跡です。
左の藪が御殿です。
永原御殿の遺構はよく残っていますが、何しろ酷い藪です。
私有地のため全く整備されていませんが、もったいないです。
なんとか整備して欲しいものです。