上原城 その2 [お城踏査]
上原城の続きです。
上原城の絵図です。
宮坂武男氏の絵図です。
上原城の畝状空堀群です。
畝状空堀群とは、竪堀と土塁を交互に配置した防御施設です。
山上にある神社です。
物見岩です。
二の曲輪にあります。
ここから見張りをしたのでしょうか。
城跡から見た城下の景色です。
上原城の図面です。
主郭にある説明です。
主郭です。
広く平坦です。
三方に低い土塁を巡らせています。
主郭から見た物見岩です。
主郭の高さがわかります。
理昌院曲輪です。
こちらもかなり広く削平がしっかりしています。
加工された石が散乱しています。
理昌院とは諏訪頼水の母です。
山上にも居住施設があったのではないでしょうか。
理昌院曲輪の周りは多くの曲輪があります。
主郭背後の堀切です。
シャープな切岸です。
400年以上前の遺構とは思えないくらい明瞭です。
(終)
上原城の絵図です。
宮坂武男氏の絵図です。
上原城の畝状空堀群です。
畝状空堀群とは、竪堀と土塁を交互に配置した防御施設です。
山上にある神社です。
物見岩です。
二の曲輪にあります。
ここから見張りをしたのでしょうか。
城跡から見た城下の景色です。
上原城の図面です。
主郭にある説明です。
主郭です。
広く平坦です。
三方に低い土塁を巡らせています。
主郭から見た物見岩です。
主郭の高さがわかります。
理昌院曲輪です。
こちらもかなり広く削平がしっかりしています。
加工された石が散乱しています。
理昌院とは諏訪頼水の母です。
山上にも居住施設があったのではないでしょうか。
理昌院曲輪の周りは多くの曲輪があります。
主郭背後の堀切です。
シャープな切岸です。
400年以上前の遺構とは思えないくらい明瞭です。
(終)
上原城@長野県茅野市 [お城踏査]
上原城は長野県茅野市にあった中世城郭です。
林道で山麓の館跡に行くと、上原城の大きな看板があります。
上原城諏訪氏館跡の石碑です。
室町時代、諏訪信満が館を構えました。
その後、信満-政満-頼満-頼隆-頼重の5代の約70年に渡り諏訪地方を統治しました。
頼重は武田信玄の妹を妻に迎えたが、天文11年(1542)7月、その信玄)よって滅ぼされました。
その後は武田氏の城となり、板垣氏が入りました。
説明です。
山麓部は板垣平と呼ばれて館がありました。
上原城の縄張り図です。
山麓の館と山上の詰の城からなる根古屋式の城です。
板垣平です。
平坦地になっていて、畑や山林になっています。
上原城の案内図です。
上原城は標高978mの金毘羅山頂にあります。
山麓からは林道が通っていて山頂付近まで車で登れます。
上原城の入り口です。
石碑です。
上原城は石碑や説明板が多く設置されて整備されています。
堀跡です。
巨大な堀です。
(続く)
林道で山麓の館跡に行くと、上原城の大きな看板があります。
上原城諏訪氏館跡の石碑です。
室町時代、諏訪信満が館を構えました。
その後、信満-政満-頼満-頼隆-頼重の5代の約70年に渡り諏訪地方を統治しました。
頼重は武田信玄の妹を妻に迎えたが、天文11年(1542)7月、その信玄)よって滅ぼされました。
その後は武田氏の城となり、板垣氏が入りました。
説明です。
山麓部は板垣平と呼ばれて館がありました。
上原城の縄張り図です。
山麓の館と山上の詰の城からなる根古屋式の城です。
板垣平です。
平坦地になっていて、畑や山林になっています。
上原城の案内図です。
上原城は標高978mの金毘羅山頂にあります。
山麓からは林道が通っていて山頂付近まで車で登れます。
上原城の入り口です。
石碑です。
上原城は石碑や説明板が多く設置されて整備されています。
堀跡です。
巨大な堀です。
(続く)
頼岳寺 [寺院]
頼重院 [寺院]
神長官守矢史料館 [歴史雑話]
長野県茅野市の神長官守矢史料館に行って来ました。
入り口です。
薬医門です。
守矢家の門です。
史料館の外観です。
特徴的な外観です。
神長官守矢史料館は鎌倉時代より守矢家で伝えてきた文書を保管・公開する史料館です。
守矢家は中世より諏訪神社上社の神官の一つである「神長官」を明治時代まで勤めてきた家柄です。
守矢史料館は守矢家の敷地内に建っています。
諏訪神社上社において、御柱祭と並んで重要な祭礼である「御頭祭」の復元展示をしています。
ウサギの串刺しの捧げものです。
右は焼皮、左は荒布です。
江戸時代の菅江真澄のスケッチによる再現です。
諏訪大社への捧げものの鹿や猪です。
捧げものの鹿の中に耳の欠けた鹿が必ずいました。
鯉です。
武田信玄などの文書も展示していますが、撮影禁止でした。
入り口です。
薬医門です。
守矢家の門です。
史料館の外観です。
特徴的な外観です。
神長官守矢史料館は鎌倉時代より守矢家で伝えてきた文書を保管・公開する史料館です。
守矢家は中世より諏訪神社上社の神官の一つである「神長官」を明治時代まで勤めてきた家柄です。
守矢史料館は守矢家の敷地内に建っています。
諏訪神社上社において、御柱祭と並んで重要な祭礼である「御頭祭」の復元展示をしています。
ウサギの串刺しの捧げものです。
右は焼皮、左は荒布です。
江戸時代の菅江真澄のスケッチによる再現です。
諏訪大社への捧げものの鹿や猪です。
捧げものの鹿の中に耳の欠けた鹿が必ずいました。
鯉です。
武田信玄などの文書も展示していますが、撮影禁止でした。
大熊城@長野県諏訪市 [お城踏査]
法華寺の吉良義周の墓 [寺院]
法華寺は諏訪大社の神宮寺でした。
諏訪大社の周囲には神宮寺など多くの寺社がありましたが、明治の廃仏毀釈で多くの寺院が廃されました。
法華寺の楼門です。
朱塗りの堂々たる門です。
諏訪大社上社本宮のすぐ南に位置します。
本堂です。
本堂は焼失したため、近年再建されました。
法華寺には吉良義周の墓があります。
吉良義周の墓です。
宝篋印塔です。
中の四角い石が新しいです。
元禄赤穂事件の吉良上野介義央の妻は上杉綱勝の妹の富子姫でした。
米沢藩主上杉綱勝は子のないまま死去して、上杉家は無嗣断絶により改易の危機に瀕します。
その時保科正之により吉良義央の子三之助(綱憲)を綱勝の末期養子として上杉氏を継ぎ、改易の危機を脱しました。
その後、吉良氏の子がいなくなったときに、綱憲の子の義周が吉良氏の養子に入りました。
赤穂浪士が元禄15年12月14日の真夜中に吉良邸に完全武装して寝込みを襲い、寝間着姿の吉良義央の首を討ち取りました。
義周は武器を取り応戦したが、不破氏に斬られて気絶したものの一命はとりとめました。
吉良家はその際の対応が不届きとして断絶となり、諏訪藩主諏訪忠虎に預けられました。
高島城の三の丸に幽閉されましたが、家来は左右田孫兵衛、山吉盛侍の二人のみでした。
義周は生来病弱で、事件から3年後の宝永3年に死去しました。
説明です。
旧吉良町が建てたものです。
宝篋印塔の石です。
室燈院殿供養 と刻まれています。
諏訪大社の周囲には神宮寺など多くの寺社がありましたが、明治の廃仏毀釈で多くの寺院が廃されました。
法華寺の楼門です。
朱塗りの堂々たる門です。
諏訪大社上社本宮のすぐ南に位置します。
本堂です。
本堂は焼失したため、近年再建されました。
法華寺には吉良義周の墓があります。
吉良義周の墓です。
宝篋印塔です。
中の四角い石が新しいです。
元禄赤穂事件の吉良上野介義央の妻は上杉綱勝の妹の富子姫でした。
米沢藩主上杉綱勝は子のないまま死去して、上杉家は無嗣断絶により改易の危機に瀕します。
その時保科正之により吉良義央の子三之助(綱憲)を綱勝の末期養子として上杉氏を継ぎ、改易の危機を脱しました。
その後、吉良氏の子がいなくなったときに、綱憲の子の義周が吉良氏の養子に入りました。
赤穂浪士が元禄15年12月14日の真夜中に吉良邸に完全武装して寝込みを襲い、寝間着姿の吉良義央の首を討ち取りました。
義周は武器を取り応戦したが、不破氏に斬られて気絶したものの一命はとりとめました。
吉良家はその際の対応が不届きとして断絶となり、諏訪藩主諏訪忠虎に預けられました。
高島城の三の丸に幽閉されましたが、家来は左右田孫兵衛、山吉盛侍の二人のみでした。
義周は生来病弱で、事件から3年後の宝永3年に死去しました。
説明です。
旧吉良町が建てたものです。
宝篋印塔の石です。
室燈院殿供養 と刻まれています。
諏訪大社上社上宮 [神社]
金子城@長野県諏訪市 [お城踏査]
金子城は長野県諏訪市中州にあった中世城郭です。
城跡の看板です。
金子城は、武田氏滅亡後に天正12年(1584)に茶臼山城主の諏訪頼忠が城を築きました。
頼忠は徳川家康に属して、家康の関東移封後には、武蔵に移りました。
その後に諏訪に入った日根野高吉が高島城を築き、金子城は廃城となりました。
そのときに金子城の石垣を高島城に移したため、遺構も残っていません。
金子城の絵図です。
宮川がカーブしているところを利用して築かれました。
平城ですが、この絵図だとよくわからない縄張りです。
城跡は宅地となっています。
城畑、土井堀などの地名だけが城跡を偲ばせます。
諏訪市博物館で企画展「戦国を駆け抜けた諏訪氏-頼忠・頼水・忠恒 諏訪三代」をやっていたので、見てきました。
城跡の看板です。
金子城は、武田氏滅亡後に天正12年(1584)に茶臼山城主の諏訪頼忠が城を築きました。
頼忠は徳川家康に属して、家康の関東移封後には、武蔵に移りました。
その後に諏訪に入った日根野高吉が高島城を築き、金子城は廃城となりました。
そのときに金子城の石垣を高島城に移したため、遺構も残っていません。
金子城の絵図です。
宮川がカーブしているところを利用して築かれました。
平城ですが、この絵図だとよくわからない縄張りです。
城跡は宅地となっています。
城畑、土井堀などの地名だけが城跡を偲ばせます。
諏訪市博物館で企画展「戦国を駆け抜けた諏訪氏-頼忠・頼水・忠恒 諏訪三代」をやっていたので、見てきました。