信玄塚 [歴史雑話]
武田信玄は三河を攻めている途中に発病して、甲斐に帰る途中の元亀4年4月12日に死去しました。
信玄の死は極秘にされたため、実際に死去した場所はよくわかっていません。
一般的には小山田信茂宛御宿堅物書状写による長野県の駒場説が有力ですが、他に浪合説、根羽説などがあります。
その有力な説の一つが長野県根羽村です。
現在は信玄塚があります。
これが信玄塚です。
かなり立派な宝篋印塔です。
こんな山間の地にはめったにありません。
今は神社となっています。
説明です。
『甲陽軍鑑』にはねばねの上村で他界とあります。
また、その時に風林火山の旗を横にしたためこの地を横旗といいます。
江戸時代の寛文年間に信玄百回忌に際して供養のためこの宝篋印塔を建てました。
そして、横旗、砦、中野の3つの部落の人により武田神社として祀られました。
国道の法面に武田軍の絵が描かれています。
今は立派な国道ですが、かつては細い道でした。
ここから険しい峠を越えて信州につながります。
信玄塚から信州の山塊を望む。
中央の集落が横旗です。
本当に山中であることがわかります。
信玄もさぞ無念だったでしょう。
信玄の死は極秘にされたため、実際に死去した場所はよくわかっていません。
一般的には小山田信茂宛御宿堅物書状写による長野県の駒場説が有力ですが、他に浪合説、根羽説などがあります。
その有力な説の一つが長野県根羽村です。
現在は信玄塚があります。
これが信玄塚です。
かなり立派な宝篋印塔です。
こんな山間の地にはめったにありません。
今は神社となっています。
説明です。
『甲陽軍鑑』にはねばねの上村で他界とあります。
また、その時に風林火山の旗を横にしたためこの地を横旗といいます。
江戸時代の寛文年間に信玄百回忌に際して供養のためこの宝篋印塔を建てました。
そして、横旗、砦、中野の3つの部落の人により武田神社として祀られました。
国道の法面に武田軍の絵が描かれています。
今は立派な国道ですが、かつては細い道でした。
ここから険しい峠を越えて信州につながります。
信玄塚から信州の山塊を望む。
中央の集落が横旗です。
本当に山中であることがわかります。
信玄もさぞ無念だったでしょう。