大熊城@長野県諏訪市 [お城踏査]

大熊城は長野県諏訪市大熊にあった中世城郭です。

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城跡です。

ほとんど畑になっています。

大熊城は千野氏の居城です。

諏訪神社上社大祝に属する山城で、当時対立していた下社大祝金刺氏との攻防の場になりました。

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土塁の上に千野氏の名を刻んだ祠があるようですが、草が繁茂していてわかりませんでした。

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堀跡です。

主郭の下の堀です。

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城跡の半分は中央高速により破壊されています。

真ん中に見える道路が高速道路です。

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堀切です。

大熊城は山城ですが、すぐ近くまで車で行くことができます。


法華寺の吉良義周の墓 [寺院]

法華寺は諏訪大社の神宮寺でした。

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諏訪大社の周囲には神宮寺など多くの寺社がありましたが、明治の廃仏毀釈で多くの寺院が廃されました。

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法華寺の楼門です。

朱塗りの堂々たる門です。

諏訪大社上社本宮のすぐ南に位置します。

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本堂です。

本堂は焼失したため、近年再建されました。

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法華寺には吉良義周の墓があります。

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吉良義周の墓です。

宝篋印塔です。

中の四角い石が新しいです。


元禄赤穂事件の吉良上野介義央の妻は上杉綱勝の妹の富子姫でした。

米沢藩主上杉綱勝は子のないまま死去して、上杉家は無嗣断絶により改易の危機に瀕します。

その時保科正之により吉良義央の子三之助(綱憲)を綱勝の末期養子として上杉氏を継ぎ、改易の危機を脱しました。

その後、吉良氏の子がいなくなったときに、綱憲の子の義周が吉良氏の養子に入りました。

赤穂浪士が元禄15年12月14日の真夜中に吉良邸に完全武装して寝込みを襲い、寝間着姿の吉良義央の首を討ち取りました。

義周は武器を取り応戦したが、不破氏に斬られて気絶したものの一命はとりとめました。

吉良家はその際の対応が不届きとして断絶となり、諏訪藩主諏訪忠虎に預けられました。

高島城の三の丸に幽閉されましたが、家来は左右田孫兵衛、山吉盛侍の二人のみでした。

義周は生来病弱で、事件から3年後の宝永3年に死去しました。

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説明です。

旧吉良町が建てたものです。

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宝篋印塔の石です。

室燈院殿供養 と刻まれています。

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