赤穂城 その9 [お城踏査]

赤穂城の記事もそろそろ終わりです。

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大手門に戻ってきました。

大手門脇の二重隅櫓です。

よく見るとその奥にも櫓のような建物が見えます。

これは櫓ではなく、お土産店です。

このアングルで見ると櫓のデュエットみたいに見えて好きな景色です。

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二重櫓の奥にある櫓台です。

ここは石垣だけで、江戸時代にも櫓はありませんでした。

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赤穂市博物館にある赤穂城の模型の大手門付近です。

模型も櫓台だけで建物はありません。

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櫓台を別のアングルで。

奥に見えるのが大手門脇二重櫓です。

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櫓台の反対側の堀は残念ながら埋められてしまっています。

しかし、石垣はよく残されています。

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大手門と二重櫓です。

絵になる景観です。

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近くの商店には大石内蔵助良雄の人形がありました。

赤穂城と言えば「忠臣蔵」が有名ですが、浅野氏が城主だったのは江戸の初期だけで、浅野内匠頭が江戸城内で高家の吉良氏を切り付けるという正気のの沙汰とは思えない刃傷事件を起こして改易になってからは森氏が入りました。

森氏はその後も赤穂領を治めて明治維新を迎えましたが、赤穂城には森氏の「も」の字もありません。

忠臣蔵一本です。

赤穂城も浅野氏よりも森氏の時代のほうが数倍も長かったけど、それほどインパクトがあったのでょう。

赤穂城もあの事件がなければ、これほど有名になることはなかったでしょう。

同じようなことは上田城でもいえます。

上田城は真田氏の城として有名ですが、実際には近世には真田氏はほとんどいなくて、江戸時代の城主は仙石氏や松平氏でした。

知名度的には真田氏や浅野氏のほうが有名なので、観光的には仕方ない点もあるでしようが、他の歴史があることも知ってほしいですね。

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赤穂市のマンホールです。

(終わり)

赤穂城 その8 [お城踏査]

12月だからと言って、赤穂城のネタで14日まで引っ張る予定はありません。

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二の丸の西仕切門です。

平成22年に復元されました。

赤穂城は地味に復元が進んでいます。

しばらく行かないと知らぬ間に門や土塀が出来ていたりします。

かといって、名古屋から赤穂は遠いので、そう頻繁にはいけません。

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西仕切門は二の丸を南北にわける門です。

発掘調査の結果、控柱付きの棟門だったことがわかりました。

文献資料や絵図によると「透かし門」と呼ばれていました。

門扉の一部に横板を張らない構造だったと思われ、そのように復元されました。

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西仕切門の土塀と石垣です。

土塀には狭間が切られています。

こちらも丸、三角、四角の狭間が規則的に並んでいます。

本丸門の土塀は狭間が大きく感じましたが、こちらは小ぶりでスマートに感じます。

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土塀です。

西仕切門の中は二の丸庭園を整備中です。

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西仕切門付近から見た二の丸庭園の門です。

その右は本丸隅櫓です。

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本丸の石垣です。

(続く)

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