和歌山城 その4 [お城踏査]
和歌山城の続きです。
岡口門から天守を目指します。
中御門を超えて松の丸に向かいます。
松の丸への階段を上ります。
正面の石垣は松の丸の高石垣です。
つづら折りの石垣を登ります。
松の丸の石垣です。
この辺りも古い野面積みです。
門の跡には礎石が残っています。
いよいよ天守が見えてきました。
しかし、ここで天守とは逆の方向に180度ターン。
簡単には天守には近付けません。
さらに悪いことに雨脚が強くなってきました。
和歌山城は虎伏山の上に天守のある天守郭と本丸が並ぶ縄張りでした。
本丸の絵図です。
本丸には本丸御殿がありました。
玄関や大広間、書院、台所など6棟の建物があり、築城当初は使われたようですが、江戸時代には狭く不便なため二の丸御殿が使われるようになりました。
現在の本丸です。
本丸には今は配水池が建てられて中に入ることはできません。
(続く)
岡口門から天守を目指します。
中御門を超えて松の丸に向かいます。
松の丸への階段を上ります。
正面の石垣は松の丸の高石垣です。
つづら折りの石垣を登ります。
松の丸の石垣です。
この辺りも古い野面積みです。
門の跡には礎石が残っています。
いよいよ天守が見えてきました。
しかし、ここで天守とは逆の方向に180度ターン。
簡単には天守には近付けません。
さらに悪いことに雨脚が強くなってきました。
和歌山城は虎伏山の上に天守のある天守郭と本丸が並ぶ縄張りでした。
本丸の絵図です。
本丸には本丸御殿がありました。
玄関や大広間、書院、台所など6棟の建物があり、築城当初は使われたようですが、江戸時代には狭く不便なため二の丸御殿が使われるようになりました。
現在の本丸です。
本丸には今は配水池が建てられて中に入ることはできません。
(続く)
和歌山城 その3 [お城踏査]
和歌山城 その2 [お城踏査]
和歌山城の続きです。
大手門から進むと中の門があります。
桝形門です。
中の門の石垣です。
石垣は切り込みハギの積み方です。
きれいな切石が使われています。
虎伏です。
和歌山城の別名は虎伏城です。
和歌山城の築かれた山の形が虎が伏している形ににていることから付けられました。
和歌山城は豊臣秀吉の弟秀長が天正13年(1585)に築きました。
その後桑山重晴が城代として入りました。
関ケ原合戦の後は浅野幸長が37万石で入り、天守を築きました。
大阪の陣の後の元和5年(1619)に浅野氏は改易となった福島正則の後に広島城に移ります。
そのあとに徳川家康の10男頼宣が55万5千石で入り、御三家の一つ紀州藩となります。
和歌山城の図です。
遺構は比較的よく残っています。
和歌山城の山麓の石垣です。
野面積みです。
和歌山城は、豊臣秀長以降、城主が頻繁に変わっていて、その都度改修を加えているのでいろいろなタイプの石垣を見ることができます。
松の丸の高石垣です。
きれいな切込みハギですが、よく見ると下部は積み方が異なります。
同じく松の丸の石垣です。
人物と比較しても高石垣ぶりがわかります。
この日は雨模様で、和歌山城についたころは小降りでした。
(続く)
大手門から進むと中の門があります。
桝形門です。
中の門の石垣です。
石垣は切り込みハギの積み方です。
きれいな切石が使われています。
虎伏です。
和歌山城の別名は虎伏城です。
和歌山城の築かれた山の形が虎が伏している形ににていることから付けられました。
和歌山城は豊臣秀吉の弟秀長が天正13年(1585)に築きました。
その後桑山重晴が城代として入りました。
関ケ原合戦の後は浅野幸長が37万石で入り、天守を築きました。
大阪の陣の後の元和5年(1619)に浅野氏は改易となった福島正則の後に広島城に移ります。
そのあとに徳川家康の10男頼宣が55万5千石で入り、御三家の一つ紀州藩となります。
和歌山城の図です。
遺構は比較的よく残っています。
和歌山城の山麓の石垣です。
野面積みです。
和歌山城は、豊臣秀長以降、城主が頻繁に変わっていて、その都度改修を加えているのでいろいろなタイプの石垣を見ることができます。
松の丸の高石垣です。
きれいな切込みハギですが、よく見ると下部は積み方が異なります。
同じく松の丸の石垣です。
人物と比較しても高石垣ぶりがわかります。
この日は雨模様で、和歌山城についたころは小降りでした。
(続く)