井伊氏居館@静岡県浜松市 [お城踏査]
井伊氏居館は静岡県浜松市北区引佐町井伊谷にありました。
説明です。
井伊氏の居館です。
居館は井伊谷城の麓にありました。
赤く塗られている辺りですが、宅地化されていて遺構はありません。
100m四方ほどの規模です。
堀の跡が水路として残っているそうですが、よくわかりませんでした。
居館の跡には江戸時代には近藤家の陣屋が建てられました。
井伊城御旧跡ノ図です。
本丸、二の丸、三の丸から構成されていたようです。
三の丸に江戸期には陣屋が建てられていました。
縄張りは近世的で、江戸期に描かれた想像図に近いと思われます。
井伊大明神がありました。
幕末に大老井伊直弼がこの井伊大明神を訪ねて参拝したとの記録が残されています。
今は井伊大明神はありません。
本丸の拡大図です。
尹良親王のオエナツカや築山の石、礎石や井戸がありました。
本丸は東西1町半(150m)、南北2町半(250m)とあります。
かなり広かったことになります。
井伊直満と井伊直義の墓が書かれていますが、これは今もあります。
濫塔の松です。
今生えている木はタブの木です。
松の下にある井伊直満と井伊直義の墓です。
直満は井伊直政の祖父で、直義はその弟です。
直満は天文13年に井伊家の家老小野和泉守の讒言により謀反の疑いで駿府で殺害されてしまいました。
宝篋印塔ですが、どちらが直満かわかりません。
墓は一部は江戸期に補修されていますが、古い形式を残しています。
井殿の塚と呼ばれています。
井伊殿の墓という意味です。
関係する地図です。
井伊谷城と居館の位置関係がよくわかります。
説明板は公民館の前に建てられています。
これは古いので大河ドラマの前から建てられていました。
公民館は城跡のような公有地に建てられることが多いです。
後ろの山が井伊谷城です。
説明です。
井伊氏の居館です。
居館は井伊谷城の麓にありました。
赤く塗られている辺りですが、宅地化されていて遺構はありません。
100m四方ほどの規模です。
堀の跡が水路として残っているそうですが、よくわかりませんでした。
居館の跡には江戸時代には近藤家の陣屋が建てられました。
井伊城御旧跡ノ図です。
本丸、二の丸、三の丸から構成されていたようです。
三の丸に江戸期には陣屋が建てられていました。
縄張りは近世的で、江戸期に描かれた想像図に近いと思われます。
井伊大明神がありました。
幕末に大老井伊直弼がこの井伊大明神を訪ねて参拝したとの記録が残されています。
今は井伊大明神はありません。
本丸の拡大図です。
尹良親王のオエナツカや築山の石、礎石や井戸がありました。
本丸は東西1町半(150m)、南北2町半(250m)とあります。
かなり広かったことになります。
井伊直満と井伊直義の墓が書かれていますが、これは今もあります。
濫塔の松です。
今生えている木はタブの木です。
松の下にある井伊直満と井伊直義の墓です。
直満は井伊直政の祖父で、直義はその弟です。
直満は天文13年に井伊家の家老小野和泉守の讒言により謀反の疑いで駿府で殺害されてしまいました。
宝篋印塔ですが、どちらが直満かわかりません。
墓は一部は江戸期に補修されていますが、古い形式を残しています。
井殿の塚と呼ばれています。
井伊殿の墓という意味です。
関係する地図です。
井伊谷城と居館の位置関係がよくわかります。
説明板は公民館の前に建てられています。
これは古いので大河ドラマの前から建てられていました。
公民館は城跡のような公有地に建てられることが多いです。
後ろの山が井伊谷城です。
井伊谷城@静岡県浜松市 [お城踏査]
井伊谷城は静岡県浜松市北区引佐町井伊谷にあった中世城郭です。
井伊谷城の遠景です。
山城ですが、標高116m、比高は80mほどです。
それほど高い山ではありません。
山頂です。
新しい看板が出来ていました。
以前は白い木の標識だけでしたが、大河ドラマ井伊直虎の影響で整備しました。
顔出し看板まで出来ていました。
井伊直虎、南渓和尚、虎松です。
井伊谷城は、井伊氏の城でした。
居館は南の山麓にあり、ここはいわゆる詰めの城でした。
井伊谷城の測量図です。
山頂部を二段に削って土塁をめぐらせた比較的単調な縄張りです。
井伊谷城のイメージ図です。
麓には家臣や一族の居館がありました。
虎口です。
回りを土塁で固めて、内部は桝形状になっていました。
今回の整備で虎口が舗装されてしまったのは残念です。
主郭内は一段高くなっています。
高くなっているところは御所の丸と言われています。
このような山間の地に御所とはなぜでしょうか。
井伊谷城は、寛弘7年(1010)に井伊共保によって築かれたと云われます。
南北朝期には井伊道政は南朝に味方して、後醍醐天皇の皇子宗良親王を迎えて三岳城に籠りました。
井伊谷城の御所丸という呼称は宗良親王が一時的にここにいたことを示すものではないでしょうか。
御所の丸は自然地形に近く、大きな石が鎮座して、神聖な場所のようです。
下の段がきれいに削平されているのと対照的です。
井伊氏の系譜です。
直虎が次郎法師として書かれています。
山頂から龍潭寺方面を眺めたところです。
いい景色です。
同じく山頂から三岳城を眺めたところです。
三岳城はかなり高い山に築かれていました。
標高466mでした。
井伊谷城の周辺には直虎の幟が乱立していました。
おそらく去年までは訪れる人はほとんどいなかったでしようか、大河ドラマの影響で大勢の人が登っていました。
井伊谷城の遠景です。
山城ですが、標高116m、比高は80mほどです。
それほど高い山ではありません。
山頂です。
新しい看板が出来ていました。
以前は白い木の標識だけでしたが、大河ドラマ井伊直虎の影響で整備しました。
顔出し看板まで出来ていました。
井伊直虎、南渓和尚、虎松です。
井伊谷城は、井伊氏の城でした。
居館は南の山麓にあり、ここはいわゆる詰めの城でした。
井伊谷城の測量図です。
山頂部を二段に削って土塁をめぐらせた比較的単調な縄張りです。
井伊谷城のイメージ図です。
麓には家臣や一族の居館がありました。
虎口です。
回りを土塁で固めて、内部は桝形状になっていました。
今回の整備で虎口が舗装されてしまったのは残念です。
主郭内は一段高くなっています。
高くなっているところは御所の丸と言われています。
このような山間の地に御所とはなぜでしょうか。
井伊谷城は、寛弘7年(1010)に井伊共保によって築かれたと云われます。
南北朝期には井伊道政は南朝に味方して、後醍醐天皇の皇子宗良親王を迎えて三岳城に籠りました。
井伊谷城の御所丸という呼称は宗良親王が一時的にここにいたことを示すものではないでしょうか。
御所の丸は自然地形に近く、大きな石が鎮座して、神聖な場所のようです。
下の段がきれいに削平されているのと対照的です。
井伊氏の系譜です。
直虎が次郎法師として書かれています。
山頂から龍潭寺方面を眺めたところです。
いい景色です。
同じく山頂から三岳城を眺めたところです。
三岳城はかなり高い山に築かれていました。
標高466mでした。
井伊谷城の周辺には直虎の幟が乱立していました。
おそらく去年までは訪れる人はほとんどいなかったでしようか、大河ドラマの影響で大勢の人が登っていました。