貨物鉄道博物館 その6 [鉄道]
続きます。
DB101号です。
昭和32年製造です。
静岡県の用宗駅から分岐していた巴川製紙所の工場引き込み線で貨車を牽引していたディーゼル機関車です。
昭和61年に引退しました。
タム8000形8000号です。
昭和37年製造。
15トン積過酸化水素専用タンク車です。
純アルミ製のタンクは高価で強度が劣りますが、過酸化水素が分解することを抑制します。
タム5000形6263号です。
昭和43年製造。
15トン積塩酸及びアミノ酸専用タンク車です。
塩酸は腐食性が強いので、内面にゴムライニングが施されています。
屋外展示はこんな感じです。
屋根のある展示もありますが、露天も多いので、劣化も心配です。
貨物鉄道博物館は、NPОによる運営です。
月に一回しか開館していませんが、次には開館日に訪問したいです。
(終わり)
DB101号です。
昭和32年製造です。
静岡県の用宗駅から分岐していた巴川製紙所の工場引き込み線で貨車を牽引していたディーゼル機関車です。
昭和61年に引退しました。
タム8000形8000号です。
昭和37年製造。
15トン積過酸化水素専用タンク車です。
純アルミ製のタンクは高価で強度が劣りますが、過酸化水素が分解することを抑制します。
タム5000形6263号です。
昭和43年製造。
15トン積塩酸及びアミノ酸専用タンク車です。
塩酸は腐食性が強いので、内面にゴムライニングが施されています。
屋外展示はこんな感じです。
屋根のある展示もありますが、露天も多いので、劣化も心配です。
貨物鉄道博物館は、NPОによる運営です。
月に一回しか開館していませんが、次には開館日に訪問したいです。
(終わり)
貨物鉄道博物館 その5 [鉄道]
貨物鉄道博物館 その4 [鉄道]
貨物鉄道博物館 その3 [鉄道]
貨物鉄道博物館の続きです。
ワ11形11号です。
昭和4年製造です。
新潟県を走っていた蒲原鉄道の10トン積有蓋車です。
有蓋車の側面は鋼板張りが増えてきましたが、この貨物車は木張りでした。
ワ1形5490号です。
明治39年製造です。
北越鉄道の7トン積有蓋車でしたが、戦後は近江鉄道に移籍しました。
大正時代に荷重を10トンに増やす改造を受けています。
鋼製の柱に木製の板張りで、引き戸も木製です。
ワフ21000形21120号です。
昭和9年製造です。
国鉄初の鋼製有蓋緩急車で、2人乗務用の広い車掌室が特徴です。
2トン積の小さな貨物室は、他の貨物との混載に不向きな鮮魚や貴重品など小口貨物用でした。
昭和52年から岐阜県の西濃鉄道に移籍して、推進運転に用いられました。
ワフ21120です。
ワは有蓋車です。
フは緩急車です。
緩急車とは、列車にブレーキを掛ける装置が取り付けられた車両です。
(続く)
ワ11形11号です。
昭和4年製造です。
新潟県を走っていた蒲原鉄道の10トン積有蓋車です。
有蓋車の側面は鋼板張りが増えてきましたが、この貨物車は木張りでした。
ワ1形5490号です。
明治39年製造です。
北越鉄道の7トン積有蓋車でしたが、戦後は近江鉄道に移籍しました。
大正時代に荷重を10トンに増やす改造を受けています。
鋼製の柱に木製の板張りで、引き戸も木製です。
ワフ21000形21120号です。
昭和9年製造です。
国鉄初の鋼製有蓋緩急車で、2人乗務用の広い車掌室が特徴です。
2トン積の小さな貨物室は、他の貨物との混載に不向きな鮮魚や貴重品など小口貨物用でした。
昭和52年から岐阜県の西濃鉄道に移籍して、推進運転に用いられました。
ワフ21120です。
ワは有蓋車です。
フは緩急車です。
緩急車とは、列車にブレーキを掛ける装置が取り付けられた車両です。
(続く)
貨物鉄道博物館 その2 [鉄道]
貨物鉄道博物館 [鉄道]
桑名城の門 [移築城門]
桑名城の移築城門 [移築城門]
桑名城の移築御殿 [移築城門]
伏屋城@岐阜県羽島郡岐南町 [お城踏査]
伏屋城は岐阜県羽島郡岐南町にあった中世城郭です。
もう一つの一夜城とも言われています。
一夜城は織田信長が美濃の稲葉山城(岐阜城)を責めるために永禄年間に築いた墨俣一夜城が有名です。
豊臣秀吉(木下藤吉郎)が一夜で築いたために一夜城と呼ばれています。
ところがこの伏屋城が豊臣秀吉が築いた一夜城であるという伝承があります。
実際に伏屋城からは岐阜城は目の前です。
墨俣一夜城は少し距離があります。
こちらが一夜城というのも一理あるような気もします。
ただ、天正12年の小牧長久手合戦の時に秀吉は伏屋城に伏屋市兵衛に守らせました。
この時のことと信長の美濃攻めと混同しているかもしれません。
伏屋城は宅地の中にあります。
城跡付近のみは藪になっています。
土塁がL字状に残っています。
竹藪となっているのでとても分かりにくいですが、土塁がよく残っています。
もう一つの一夜城とも言われています。
一夜城は織田信長が美濃の稲葉山城(岐阜城)を責めるために永禄年間に築いた墨俣一夜城が有名です。
豊臣秀吉(木下藤吉郎)が一夜で築いたために一夜城と呼ばれています。
ところがこの伏屋城が豊臣秀吉が築いた一夜城であるという伝承があります。
実際に伏屋城からは岐阜城は目の前です。
墨俣一夜城は少し距離があります。
こちらが一夜城というのも一理あるような気もします。
ただ、天正12年の小牧長久手合戦の時に秀吉は伏屋城に伏屋市兵衛に守らせました。
この時のことと信長の美濃攻めと混同しているかもしれません。
伏屋城は宅地の中にあります。
城跡付近のみは藪になっています。
土塁がL字状に残っています。
竹藪となっているのでとても分かりにくいですが、土塁がよく残っています。