茶臼山城@愛知県西尾市 [お城踏査]
茶臼山城は愛知県西尾市吉良町宮迫にあった中世城郭です。
主郭の入り口です。
両脇に石垣があります。
石垣のアップです。
あまり丁寧に積まれていません。
茶臼山城の石垣ではありません。
茶臼山城が廃城になった以降に城跡に建てられた宗教施設によるものです。
主郭です。
写真を撮ってもただの林にしか見えません。
山頂部は削平されていて、その周りに腰曲輪があります。
茶臼山城は標高260mの山上にあります。
一説には茶臼山城は東条城(西尾市吉良町駮馬)の詰の城とも伝えられます。
城主に大高弾正、大蔵弾正、松平弥左衛門の名が伝えられますが、よくわかっていいません。
主郭の東には堀切がありますが、その東にも土塁を伴う曲輪がありますが、そこからは尾根続きで、なんとも締まりのない縄張りで、不思議な城です。
主郭の入り口です。
両脇に石垣があります。
石垣のアップです。
あまり丁寧に積まれていません。
茶臼山城の石垣ではありません。
茶臼山城が廃城になった以降に城跡に建てられた宗教施設によるものです。
主郭です。
写真を撮ってもただの林にしか見えません。
山頂部は削平されていて、その周りに腰曲輪があります。
茶臼山城は標高260mの山上にあります。
一説には茶臼山城は東条城(西尾市吉良町駮馬)の詰の城とも伝えられます。
城主に大高弾正、大蔵弾正、松平弥左衛門の名が伝えられますが、よくわかっていいません。
主郭の東には堀切がありますが、その東にも土塁を伴う曲輪がありますが、そこからは尾根続きで、なんとも締まりのない縄張りで、不思議な城です。
名古屋城本丸御殿復元工事の現況 平成29年10月下旬 [名古屋城本丸御殿復元工事]
青塚古墳 [歴史雑話]
姉川古戦場・陣杭の柳 [歴史雑話]
姉川古戦場です。
姉川合戦における織田信長の本陣跡です。
合戦の朝は織田信長はこの東の龍ケ鼻砦にいましたが、浅井軍の姉川北岸への進出を聞いて、ここに布陣しました。
ここに立つ柳には信長が陣太鼓をかけて指揮をしたという伝承があります。
陣杭は本来陣鼓と書かれたとも言われます。
一方で、信長の本陣に使われた柵が自生したとも言われます。
龍鼻の郷の石碑です。
陣杭の柳です。
現在の柳は平成元年に3代目の木から枝を取った4代目です。
もともとは約10m北西にありましたが、平成9年の圃場整備により移築されました。
柳は尾上柳という種類です。
織田信長が始めに本陣を置いた龍ケ鼻砦です。
小高い山で、古墳がたくさんありました。
古墳を利用して陣地が作られていたのでしょうか。
姉川合戦における織田信長の本陣跡です。
合戦の朝は織田信長はこの東の龍ケ鼻砦にいましたが、浅井軍の姉川北岸への進出を聞いて、ここに布陣しました。
ここに立つ柳には信長が陣太鼓をかけて指揮をしたという伝承があります。
陣杭は本来陣鼓と書かれたとも言われます。
一方で、信長の本陣に使われた柵が自生したとも言われます。
龍鼻の郷の石碑です。
陣杭の柳です。
現在の柳は平成元年に3代目の木から枝を取った4代目です。
もともとは約10m北西にありましたが、平成9年の圃場整備により移築されました。
柳は尾上柳という種類です。
織田信長が始めに本陣を置いた龍ケ鼻砦です。
小高い山で、古墳がたくさんありました。
古墳を利用して陣地が作られていたのでしょうか。
姉川古戦場・遠藤直経の墓 [歴史雑話]
姉川古戦場にある遠藤直経の墓です。
遠藤氏は浅井氏の重臣です。
田の中にあります。
説明板です。
遠藤直経が討ち死にした場所と伝えられます。
字も円藤といいます。
かつてはこの説明板の40m北の田の中に遠藤塚と呼ばれる塚がありました。
遠藤直経の墓と伝えられます。
昭和54年に墓標が建てられました。
平成9年の圃場整備の際に現在地に移されました。
ここでも圃場整備により史跡が消滅しました。
遠藤直経は姉川合戦の時に浅井軍の敗色が濃くなると味方の武将首1つを携えて敵軍に偽装して織田軍の陣深く忍び込みました。
織田信長を討ち取るためです。
しかし、竹中重矩(半兵衛の弟)に見破られて討ち死にしました。
遠藤氏は浅井氏の重臣です。
田の中にあります。
説明板です。
遠藤直経が討ち死にした場所と伝えられます。
字も円藤といいます。
かつてはこの説明板の40m北の田の中に遠藤塚と呼ばれる塚がありました。
遠藤直経の墓と伝えられます。
昭和54年に墓標が建てられました。
平成9年の圃場整備の際に現在地に移されました。
ここでも圃場整備により史跡が消滅しました。
遠藤直経は姉川合戦の時に浅井軍の敗色が濃くなると味方の武将首1つを携えて敵軍に偽装して織田軍の陣深く忍び込みました。
織田信長を討ち取るためです。
しかし、竹中重矩(半兵衛の弟)に見破られて討ち死にしました。
姉川古戦場・血川 [歴史雑話]
姉川古戦場の血川です。
姉川合戦は当初浅井・朝倉軍が優勢でしたが、西美濃三人衆や徳川氏の加勢により織田軍が勝利しました。
この看板の浅井軍が軍を置いた野村集落の南にあたります。
また、この看板から南東300mにある塚町は姉川合戦の戦死者を葬った場所と伝えられます。
この看板の下にはかつて血川と言う幅数mの川が流れていました。
姉川合戦時には血で染まったと言われます。
しかし、昭和60年の圃場整備により川はなくなってしまいました。
姉川合戦の古絵図です。
赤は織田・徳川軍、黒は浅井・朝倉軍です。
姉川を挟んで対峙している様子がわかります。
陣屋橋です。
姉川のほとりに建つ姉川の合戦場の碑です。
本当にあちらこちらに看板があり、地元の熱意が伝わります。
姉川合戦は当初浅井・朝倉軍が優勢でしたが、西美濃三人衆や徳川氏の加勢により織田軍が勝利しました。
この看板の浅井軍が軍を置いた野村集落の南にあたります。
また、この看板から南東300mにある塚町は姉川合戦の戦死者を葬った場所と伝えられます。
この看板の下にはかつて血川と言う幅数mの川が流れていました。
姉川合戦時には血で染まったと言われます。
しかし、昭和60年の圃場整備により川はなくなってしまいました。
姉川合戦の古絵図です。
赤は織田・徳川軍、黒は浅井・朝倉軍です。
姉川を挟んで対峙している様子がわかります。
陣屋橋です。
姉川のほとりに建つ姉川の合戦場の碑です。
本当にあちらこちらに看板があり、地元の熱意が伝わります。
姉川古戦場・姉川 [歴史雑話]
姉川古戦場です。
姉川古戦場と言えばここの石碑が有名です。
元亀庚午古戦場と姉川戦死者之碑の二本の石碑が建てられています。
新しい看板です。
右は姉川です。
姉川にかかる野村橋です。
姉川です。
割と幅広い川です。
説明板です。
姉川古戦場の説明は丁寧でわかりやすいです。
姉川合戦の布陣図です。
織田軍2万3千 織田信長、佐久間信盛、森可成、柴田勝家、木下秀吉、池田恒興、丹羽長秀、坂井政尚
徳川軍6千 徳川家康、石川数正、酒井忠次、小笠原長忠
VS
浅井軍 8千 浅井長政、磯野員昌、浅井政澄、阿閉貞秀、新庄直頼
朝倉軍 1万 朝倉景健、前波新八郎、朝倉景紀
古戦場の地図です。
広い範囲に古戦場の史跡が散在しています。
地図があるとわかりやすいです。
姉川古戦場と言えばここの石碑が有名です。
元亀庚午古戦場と姉川戦死者之碑の二本の石碑が建てられています。
新しい看板です。
右は姉川です。
姉川にかかる野村橋です。
姉川です。
割と幅広い川です。
説明板です。
姉川古戦場の説明は丁寧でわかりやすいです。
姉川合戦の布陣図です。
織田軍2万3千 織田信長、佐久間信盛、森可成、柴田勝家、木下秀吉、池田恒興、丹羽長秀、坂井政尚
徳川軍6千 徳川家康、石川数正、酒井忠次、小笠原長忠
VS
浅井軍 8千 浅井長政、磯野員昌、浅井政澄、阿閉貞秀、新庄直頼
朝倉軍 1万 朝倉景健、前波新八郎、朝倉景紀
古戦場の地図です。
広い範囲に古戦場の史跡が散在しています。
地図があるとわかりやすいです。
姉川古戦場・陣田 [歴史雑話]
姉川古戦場の陣田です。
姉川合戦では元亀元年6月27日まで浅井長政は大依山に布陣して織田軍と対峙していました。
6月28日に重臣の遠藤直経の進言に従いこの陣田に陣を進めました。
昭和60年の圃場整備まで陣田と呼ばれる小高い丘があり、浅井長政の本陣跡と伝えられてきました。
野村に布陣した浅井軍を長政の本陣に相応しい場所でした。
現在は看板が建つのみで新しい田畑が広がる土地ですが、かつて激しい戦いがあったと想像すると感無量です。
圃場整備の際に残してもらえるとよかったですが、仕方ないことでしょうか。
野村集落内には土塁が残り、野村氏や多賀氏などの浅井氏の家臣の屋敷跡と言われていますが、姉川合戦の浅井氏の陣地として利用された可能性もあるようです。
姉川合戦では元亀元年6月27日まで浅井長政は大依山に布陣して織田軍と対峙していました。
6月28日に重臣の遠藤直経の進言に従いこの陣田に陣を進めました。
昭和60年の圃場整備まで陣田と呼ばれる小高い丘があり、浅井長政の本陣跡と伝えられてきました。
野村に布陣した浅井軍を長政の本陣に相応しい場所でした。
現在は看板が建つのみで新しい田畑が広がる土地ですが、かつて激しい戦いがあったと想像すると感無量です。
圃場整備の際に残してもらえるとよかったですが、仕方ないことでしょうか。
野村集落内には土塁が残り、野村氏や多賀氏などの浅井氏の家臣の屋敷跡と言われていますが、姉川合戦の浅井氏の陣地として利用された可能性もあるようです。