岡崎城の発掘調査現地説明会 [発掘調査現地説明会]

岡崎城の発掘調査現地説明会に行って来ました。

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菅生曲輪の桝形の発掘です。

後の櫓は東曲輪の隅櫓です。

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発掘ヶ所の位置です。

東曲輪の下にあたります。

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発掘調査の地区です。

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門の前の堀が検出されました。

水堀だったので、すぐに水がたまってしまいます。

そのため石垣の下は不明です。

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全体はこんな感じです。

看板のあたりが門跡です。

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門の跡です。

杭が立っている場所は過去の調査で門の礎石か確認された場所です。

4つの礎石から薬医門だった可能性があります。

今回は残りの1つの礎石を調査しましたが、礎石は見つかりませんでした。

抜き取られたか、後世のグランド整備により攪乱されたのでしょうか。

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反対から見た調査区です。

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菅生曲輪枡形部分の岡崎城絵図です。

きれいに桝形虎口が描かれています。

左は復元されている東櫓です。

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この絵図は桝形は明確ではありません。

東櫓まで門から登り石垣のような土塀が描かれています。

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今回の発掘調査の目的は桝形の痕跡を確認して桝形の大きさを確認することでした。

黄色が桝形の想定位置です。

左の赤い四角で石垣が確認されました。

右の五角形が下の写真です。

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残念ながら桝形の遺構は見つかりませんでした。

グランドの造成で破壊されてのでしょうか。

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位置図です。

この位置ならば枡形のなんらかの遺構が見つかるはずでした。

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ところが桝形の想定位置からは石垣や根固めの痕跡もありませんでした。

それどころか桝形の想定位置図を切る形で近世の溝遺構が出ています。

これはどういうことでしょうか。

もしかすると桝形門の舛形は江戸後期に廃止されて家臣の屋敷となったのかもしれません。

菅生曲輪は低く、菅生川の氾濫により何度も水没しています。

発掘調査でも砂層が見つかっていて洪水の跡と推定されています。

そのため城郭の門としての機能は放棄されて、屋敷地として利用された可能性もあります。

また、明治以降この土地はグランドとして利用されたために、その造成により削られた可能性もあります。

いずれにしても桝形門の規模は発掘調査によっても不明のままです。

なお、枡形門の復元は今のところ計画はないそうです。

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発掘調査現地説明会の様子です。

100名ほどの参加者でした。

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発掘調査で見つかった軒丸瓦です。

立葵文と立沢潟文です。

本多氏と水野氏の家紋です。

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岡崎城公園の大手門です。

二之丸の門は七間門ですが、位置も形も異なります。

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岡崎市のマンホールです。

岡崎城と五万石の船です。

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