沼田城@群馬県沼田市 [お城踏査]
沼田城は群馬県沼田市にあった近世城郭です。
沼田城も一昨年放送の真田丸にて有名になりました。
沼田城は、室町時代の後半の天文初期頃、沼田顕泰が築城しました。
永禄3年(1560)に上杉謙信に攻略されますが、謙信の死後は、北条氏政が支配します。
天正8年に真田昌幸が入ります。
天正10年、武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣の滝川一益の支配下となり、甥の滝川儀太夫益氏が沼田城に入入りますが、すぐに起きた本能寺の変により滝川一益は伊勢へ戻ります。
すると再び真田昌幸が入ります。
真田昌幸は嫡子・信之を沼田城に入れました。
天正17年、豊臣秀吉は、沼田城を北条氏に渡すことを真田昌幸に求めます。
しかし、北条氏は沼田城だけではなく、名胡桃城を欲しがり、攻め落としたために秀吉の怒りを買い、小田原の役につながりました。
北条氏滅亡後は、沼田城は再び真田信之の城となります。
関ヶ原合戦では沼田城の真田信之は徳川家康に味方します。
上田城の真田昌幸と信繁は西軍に属したために没収されて、信之は、上田城と沼田城を領有しました。
このころ、信之が沼田城に五重の天守を築きました。
真田氏が松代に移ると沼田城は分家の真田氏が領有しますが、藩政の乱れにより取り潰されて、沼田城も廃城となります。
江戸の中期に本多氏が2万石で再び沼田城を再興しますが、天守は築かれず、本格的な城は築かれませんでした。
沼田城の入り口です。
門は冠木門で模擬門です。
三の丸跡です。
侍屋敷がありました。
三の丸の土塁です。
部分的に残っています。
三の丸の堀跡です。
道路になっています。
(続く)
沼田城も一昨年放送の真田丸にて有名になりました。
沼田城は、室町時代の後半の天文初期頃、沼田顕泰が築城しました。
永禄3年(1560)に上杉謙信に攻略されますが、謙信の死後は、北条氏政が支配します。
天正8年に真田昌幸が入ります。
天正10年、武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣の滝川一益の支配下となり、甥の滝川儀太夫益氏が沼田城に入入りますが、すぐに起きた本能寺の変により滝川一益は伊勢へ戻ります。
すると再び真田昌幸が入ります。
真田昌幸は嫡子・信之を沼田城に入れました。
天正17年、豊臣秀吉は、沼田城を北条氏に渡すことを真田昌幸に求めます。
しかし、北条氏は沼田城だけではなく、名胡桃城を欲しがり、攻め落としたために秀吉の怒りを買い、小田原の役につながりました。
北条氏滅亡後は、沼田城は再び真田信之の城となります。
関ヶ原合戦では沼田城の真田信之は徳川家康に味方します。
上田城の真田昌幸と信繁は西軍に属したために没収されて、信之は、上田城と沼田城を領有しました。
このころ、信之が沼田城に五重の天守を築きました。
真田氏が松代に移ると沼田城は分家の真田氏が領有しますが、藩政の乱れにより取り潰されて、沼田城も廃城となります。
江戸の中期に本多氏が2万石で再び沼田城を再興しますが、天守は築かれず、本格的な城は築かれませんでした。
沼田城の入り口です。
門は冠木門で模擬門です。
三の丸跡です。
侍屋敷がありました。
三の丸の土塁です。
部分的に残っています。
三の丸の堀跡です。
道路になっています。
(続く)