浜松城発掘調査現地説明会 [発掘調査現地説明会]
浜松城発掘調査現地説明会に行って来ました。
天守曲輪の発掘調査です。
たいへん多くの人が参加していました。
お城の人気はすごいものがありますね。
浜松城の発掘調査の公開は随時行われていますが、説明会は今日が初めてです。
浜松城は天守門が復元されましたが、その両サイドに土塀が少し復元されています。
計画では天守曲輪全体に土塀を復元するための調査です。
今回は6ケ所のトレンチを入れています。
トレンチを入れると石垣が現れました。
別のトレンチです。
1m以上のかなり深く入れています。
木の根が見えます。
石は比較的小さめです。
トレンチの土層を見てもかなり埋められていることがわかります。
この写真を見ても現状と江戸時代の様子とかなり異なることがわかります。
高いところでは石垣の高さは2mちかくあったようです。
これは戦後に浜松城跡に遊園地が作られて、土塁上に電車が走っていたようですが、その時に天守曲輪にかなり盛り土をしたようです。
今回の結果を受けて、今後土塁と土塀の復元整備をどうするか検討するそうです。
土塀の建設は未定です。
発掘調査で見つかった塀瓦です。
三つ巴の軒丸瓦と太田氏の桔梗紋瓦です。
松平氏の繋九目結紋軒丸瓦と斜格子軒平瓦です。
堀尾氏の軒丸瓦です。
天守曲輪の発掘調査です。
たいへん多くの人が参加していました。
お城の人気はすごいものがありますね。
浜松城の発掘調査の公開は随時行われていますが、説明会は今日が初めてです。
浜松城は天守門が復元されましたが、その両サイドに土塀が少し復元されています。
計画では天守曲輪全体に土塀を復元するための調査です。
今回は6ケ所のトレンチを入れています。
トレンチを入れると石垣が現れました。
別のトレンチです。
1m以上のかなり深く入れています。
木の根が見えます。
石は比較的小さめです。
トレンチの土層を見てもかなり埋められていることがわかります。
この写真を見ても現状と江戸時代の様子とかなり異なることがわかります。
高いところでは石垣の高さは2mちかくあったようです。
これは戦後に浜松城跡に遊園地が作られて、土塁上に電車が走っていたようですが、その時に天守曲輪にかなり盛り土をしたようです。
今回の結果を受けて、今後土塁と土塀の復元整備をどうするか検討するそうです。
土塀の建設は未定です。
発掘調査で見つかった塀瓦です。
三つ巴の軒丸瓦と太田氏の桔梗紋瓦です。
松平氏の繋九目結紋軒丸瓦と斜格子軒平瓦です。
堀尾氏の軒丸瓦です。
岡崎城の発掘調査現地説明会 [発掘調査現地説明会]
岡崎城の発掘調査現地説明会に行って来ました。
菅生曲輪の桝形の発掘です。
後の櫓は東曲輪の隅櫓です。
発掘ヶ所の位置です。
東曲輪の下にあたります。
発掘調査の地区です。
門の前の堀が検出されました。
水堀だったので、すぐに水がたまってしまいます。
そのため石垣の下は不明です。
全体はこんな感じです。
看板のあたりが門跡です。
門の跡です。
杭が立っている場所は過去の調査で門の礎石か確認された場所です。
4つの礎石から薬医門だった可能性があります。
今回は残りの1つの礎石を調査しましたが、礎石は見つかりませんでした。
抜き取られたか、後世のグランド整備により攪乱されたのでしょうか。
反対から見た調査区です。
菅生曲輪枡形部分の岡崎城絵図です。
きれいに桝形虎口が描かれています。
左は復元されている東櫓です。
この絵図は桝形は明確ではありません。
東櫓まで門から登り石垣のような土塀が描かれています。
今回の発掘調査の目的は桝形の痕跡を確認して桝形の大きさを確認することでした。
黄色が桝形の想定位置です。
左の赤い四角で石垣が確認されました。
右の五角形が下の写真です。
残念ながら桝形の遺構は見つかりませんでした。
グランドの造成で破壊されてのでしょうか。
位置図です。
この位置ならば枡形のなんらかの遺構が見つかるはずでした。
ところが桝形の想定位置からは石垣や根固めの痕跡もありませんでした。
それどころか桝形の想定位置図を切る形で近世の溝遺構が出ています。
これはどういうことでしょうか。
もしかすると桝形門の舛形は江戸後期に廃止されて家臣の屋敷となったのかもしれません。
菅生曲輪は低く、菅生川の氾濫により何度も水没しています。
発掘調査でも砂層が見つかっていて洪水の跡と推定されています。
そのため城郭の門としての機能は放棄されて、屋敷地として利用された可能性もあります。
また、明治以降この土地はグランドとして利用されたために、その造成により削られた可能性もあります。
いずれにしても桝形門の規模は発掘調査によっても不明のままです。
なお、枡形門の復元は今のところ計画はないそうです。
発掘調査現地説明会の様子です。
100名ほどの参加者でした。
発掘調査で見つかった軒丸瓦です。
立葵文と立沢潟文です。
本多氏と水野氏の家紋です。
岡崎城公園の大手門です。
二之丸の門は七間門ですが、位置も形も異なります。
岡崎市のマンホールです。
岡崎城と五万石の船です。
菅生曲輪の桝形の発掘です。
後の櫓は東曲輪の隅櫓です。
発掘ヶ所の位置です。
東曲輪の下にあたります。
発掘調査の地区です。
門の前の堀が検出されました。
水堀だったので、すぐに水がたまってしまいます。
そのため石垣の下は不明です。
全体はこんな感じです。
看板のあたりが門跡です。
門の跡です。
杭が立っている場所は過去の調査で門の礎石か確認された場所です。
4つの礎石から薬医門だった可能性があります。
今回は残りの1つの礎石を調査しましたが、礎石は見つかりませんでした。
抜き取られたか、後世のグランド整備により攪乱されたのでしょうか。
反対から見た調査区です。
菅生曲輪枡形部分の岡崎城絵図です。
きれいに桝形虎口が描かれています。
左は復元されている東櫓です。
この絵図は桝形は明確ではありません。
東櫓まで門から登り石垣のような土塀が描かれています。
今回の発掘調査の目的は桝形の痕跡を確認して桝形の大きさを確認することでした。
黄色が桝形の想定位置です。
左の赤い四角で石垣が確認されました。
右の五角形が下の写真です。
残念ながら桝形の遺構は見つかりませんでした。
グランドの造成で破壊されてのでしょうか。
位置図です。
この位置ならば枡形のなんらかの遺構が見つかるはずでした。
ところが桝形の想定位置からは石垣や根固めの痕跡もありませんでした。
それどころか桝形の想定位置図を切る形で近世の溝遺構が出ています。
これはどういうことでしょうか。
もしかすると桝形門の舛形は江戸後期に廃止されて家臣の屋敷となったのかもしれません。
菅生曲輪は低く、菅生川の氾濫により何度も水没しています。
発掘調査でも砂層が見つかっていて洪水の跡と推定されています。
そのため城郭の門としての機能は放棄されて、屋敷地として利用された可能性もあります。
また、明治以降この土地はグランドとして利用されたために、その造成により削られた可能性もあります。
いずれにしても桝形門の規模は発掘調査によっても不明のままです。
なお、枡形門の復元は今のところ計画はないそうです。
発掘調査現地説明会の様子です。
100名ほどの参加者でした。
発掘調査で見つかった軒丸瓦です。
立葵文と立沢潟文です。
本多氏と水野氏の家紋です。
岡崎城公園の大手門です。
二之丸の門は七間門ですが、位置も形も異なります。
岡崎市のマンホールです。
岡崎城と五万石の船です。
小牧山城発掘調査現地説明会 [発掘調査現地説明会]
小牧山城発掘調査現地説明会に行って来ました。
もともとは10月22日に開催予定でしたが、台風のために延期となり、実は11月18日に順延となりました。
しかし、11月18日もまたまた雨で、翌日の今日にも延期されました。
やっと晴れての開催です。
今回は主郭より西に下がった地点の発掘です。
石垣が見つかりました。
隅石は失われていましたが、出隅が確認されました。
裏込め石もあります。
石垣列Aの奥に石垣が続いています。
奥の石垣は小振りです。
しかし、面は揃っています。
きれいに整形された石が使われています。
その奥は石垣はなく切岸になっていました。
石垣と裏込め石の様子です。
石垣は数段残っていました。
石垣列Aから小さな谷を挟んだ対岸で確認された石垣列Bです。
根石の部分3つの石が見つかっていました。
2つは丸石で河原石です。
裏込め石もありました。
ここは曲輪面まで距離があり、鉢巻石垣になっていたのではという説明でした。
下から見上げた石垣列Aです。
すこし逆光で見にくいです。
石垣列Aのアップです。
きれいに面が揃っている様子がわかります。
現地説明会資料より石垣列AとBの位置関係です。
この間に虎口が想定されるという説明でした。
それを復元的に描いたイラストです。
見にくいですが、赤色が発掘調査で見つかった石垣です。
小牧山城の古絵図に赤色で発掘調査区を示したところです。
絵図には虎口はありません。
小牧山歴史館です。
天守のような形ですが、模擬天守です。
もともとは10月22日に開催予定でしたが、台風のために延期となり、実は11月18日に順延となりました。
しかし、11月18日もまたまた雨で、翌日の今日にも延期されました。
やっと晴れての開催です。
今回は主郭より西に下がった地点の発掘です。
石垣が見つかりました。
隅石は失われていましたが、出隅が確認されました。
裏込め石もあります。
石垣列Aの奥に石垣が続いています。
奥の石垣は小振りです。
しかし、面は揃っています。
きれいに整形された石が使われています。
その奥は石垣はなく切岸になっていました。
石垣と裏込め石の様子です。
石垣は数段残っていました。
石垣列Aから小さな谷を挟んだ対岸で確認された石垣列Bです。
根石の部分3つの石が見つかっていました。
2つは丸石で河原石です。
裏込め石もありました。
ここは曲輪面まで距離があり、鉢巻石垣になっていたのではという説明でした。
下から見上げた石垣列Aです。
すこし逆光で見にくいです。
石垣列Aのアップです。
きれいに面が揃っている様子がわかります。
現地説明会資料より石垣列AとBの位置関係です。
この間に虎口が想定されるという説明でした。
それを復元的に描いたイラストです。
見にくいですが、赤色が発掘調査で見つかった石垣です。
小牧山城の古絵図に赤色で発掘調査区を示したところです。
絵図には虎口はありません。
小牧山歴史館です。
天守のような形ですが、模擬天守です。
名古屋城二の丸庭園発掘調査現地説明会 [発掘調査現地説明会]
田辺城の発掘調査現地説明会は午前中だったので、午後からは名古屋城二の丸庭園の発掘調査現地説明会に行きました。
ゲンセツのダブルヘッダーです。
説明会の様子です。
100名ほどの参加者がいました。
後は築山は栄螺山(さざえやま)です。
園路の平坦面の確認です。
池の底です。
底にはモルタルが張られていました。
モルタルは明治以降に張られました。
その下には三和土がありました。
庭園は標高が高いので保水のために三和土が作られました。
奥の穴は池に氷が張った時に魚が逃げる場所です。
手前にある穴は庭園を壊した際に池の水を抜くために陸軍が空けたものです。
池の底です。
穴は魚の避難場所です。
池の底を歩ける機会は滅多にありません。
説明会の様子です。
堀の底です。
北園池です。
中の島は赤坂山です。
権現山です。
山頂に東照宮が祀られていました。
石の滝組です。
東照宮の跡です。
ゲンセツのダブルヘッダーです。
説明会の様子です。
100名ほどの参加者がいました。
後は築山は栄螺山(さざえやま)です。
園路の平坦面の確認です。
池の底です。
底にはモルタルが張られていました。
モルタルは明治以降に張られました。
その下には三和土がありました。
庭園は標高が高いので保水のために三和土が作られました。
奥の穴は池に氷が張った時に魚が逃げる場所です。
手前にある穴は庭園を壊した際に池の水を抜くために陸軍が空けたものです。
池の底です。
穴は魚の避難場所です。
池の底を歩ける機会は滅多にありません。
説明会の様子です。
堀の底です。
北園池です。
中の島は赤坂山です。
権現山です。
山頂に東照宮が祀られていました。
石の滝組です。
東照宮の跡です。
田辺城の発掘調査現地説明会 [発掘調査現地説明会]
田辺城の発掘調査現地説明会に参加しました。
田辺城と言うと京都府舞鶴の田辺城を思い浮かべますが、違います。
田辺城は三重県いなべ市北勢町田辺字北山地内にあった中世城郭です。
東海環状自動車道の予定地になったための発掘調査です。
田辺城の縄張り図です。
主郭の北にある家臣団の屋敷地と思われる場所です。
広範囲が発掘されていて驚きました。
石敷遺構1です。
1辺4mほどの大きさです。
蔵か火薬庫ではないとか思われます。
礎石建物跡です。
説明会の様子です。
田辺城は三重県でも滋賀県に近いかなり山間部にありますが、多くの見学者がきていました。
手前が礎石建物です。
礎石です。
良好に残っています。
建物は東西21m、南北9mの規模です。
かなりの大きさです。
屋敷地の遺構図です。
20m四方の規模です。
屋敷地内にあった石敷遺構2です。
こちらは一辺3.2mです。
先の石敷遺構1より小規模で、あまり整然としていません。
この遺構も蔵または火薬庫と思われます。
屋敷地の虎口です。
小規模ですが、桝形虎口になっています。
小さな屋敷でも桝形虎口があることに驚きです。
門の跡はまだ見つかっていません。
屋敷内の掘立柱建物跡です。
屋敷内は2棟の建物が見つかりました。
土坑です。
熱を受けた跡がありました。
壁が赤くなっています。
火葬遺構でしょうか。
土塁です。
高さは1mほどです。
田辺城は織田信雄の家臣の木造氏が天正14年(1586)に築城したと伝えられます。
遺物です。
常滑焼の鉢と羽釜です。
発掘面積のわりに遺物は少ないです。
田辺城と言うと京都府舞鶴の田辺城を思い浮かべますが、違います。
田辺城は三重県いなべ市北勢町田辺字北山地内にあった中世城郭です。
東海環状自動車道の予定地になったための発掘調査です。
田辺城の縄張り図です。
主郭の北にある家臣団の屋敷地と思われる場所です。
広範囲が発掘されていて驚きました。
石敷遺構1です。
1辺4mほどの大きさです。
蔵か火薬庫ではないとか思われます。
礎石建物跡です。
説明会の様子です。
田辺城は三重県でも滋賀県に近いかなり山間部にありますが、多くの見学者がきていました。
手前が礎石建物です。
礎石です。
良好に残っています。
建物は東西21m、南北9mの規模です。
かなりの大きさです。
屋敷地の遺構図です。
20m四方の規模です。
屋敷地内にあった石敷遺構2です。
こちらは一辺3.2mです。
先の石敷遺構1より小規模で、あまり整然としていません。
この遺構も蔵または火薬庫と思われます。
屋敷地の虎口です。
小規模ですが、桝形虎口になっています。
小さな屋敷でも桝形虎口があることに驚きです。
門の跡はまだ見つかっていません。
屋敷内の掘立柱建物跡です。
屋敷内は2棟の建物が見つかりました。
土坑です。
熱を受けた跡がありました。
壁が赤くなっています。
火葬遺構でしょうか。
土塁です。
高さは1mほどです。
田辺城は織田信雄の家臣の木造氏が天正14年(1586)に築城したと伝えられます。
遺物です。
常滑焼の鉢と羽釜です。
発掘面積のわりに遺物は少ないです。
岡崎城月見櫓発掘調査現地説明会 [発掘調査現地説明会]
岡崎城月見櫓発掘調査現地説明会に行ってきました。
月見櫓は本丸の南端にありました。
石垣と礎石が見つかりました。
月見櫓に接続して脇多門櫓がありましたが、この多門櫓の石垣も見つかっています。
多門櫓の手前に排水溝がありました。
多門櫓の櫓台の基礎です。
同じく石組の溝が見つかりました。
脇多門櫓の端です。
手前の大きな石は階段ではなく、明治以降に据えられたものです。
月見櫓付近の図です。
オレンジ色の部分を発掘しています。
月見櫓と脇多門の絵です。
脇多門は二重の多門でした。
二重にしては桁行は短い櫓でした。
月見櫓の絵図です。
月見櫓は風流な名前です。
月見櫓の古写真です。
珍しい重箱櫓でした。
二階には高欄がめぐり、月見をしたことがわかります。
一階は格子窓と狭間が見えます。
この写真は新たに見つかったものです。
天守と月見櫓の古写真です。
別のアングルの天守と月見櫓です。
右が月見櫓です。
本丸図の中の月見櫓です。
位置関係がよくわかります。
平櫓です。
溝が出ていましたが、櫓の遺稿は見つかっていません。
月見櫓の石垣です。
この部分はきれいな算木積みです。
新しく積みなおされたようです。
風呂屋門の跡です。
発掘中ですが、門の遺構は見つかっていません。
説明会には多くの見学者がいました。
発掘調査で見つかった軒丸瓦です。
立葵紋で、本多氏の時代のものです。
発掘調査は9月22日までです。
岡崎市のマンホールです。
岡崎城と帆かけ船がデザインされています。
月見櫓は本丸の南端にありました。
石垣と礎石が見つかりました。
月見櫓に接続して脇多門櫓がありましたが、この多門櫓の石垣も見つかっています。
多門櫓の手前に排水溝がありました。
多門櫓の櫓台の基礎です。
同じく石組の溝が見つかりました。
脇多門櫓の端です。
手前の大きな石は階段ではなく、明治以降に据えられたものです。
月見櫓付近の図です。
オレンジ色の部分を発掘しています。
月見櫓と脇多門の絵です。
脇多門は二重の多門でした。
二重にしては桁行は短い櫓でした。
月見櫓の絵図です。
月見櫓は風流な名前です。
月見櫓の古写真です。
珍しい重箱櫓でした。
二階には高欄がめぐり、月見をしたことがわかります。
一階は格子窓と狭間が見えます。
この写真は新たに見つかったものです。
天守と月見櫓の古写真です。
別のアングルの天守と月見櫓です。
右が月見櫓です。
本丸図の中の月見櫓です。
位置関係がよくわかります。
平櫓です。
溝が出ていましたが、櫓の遺稿は見つかっていません。
月見櫓の石垣です。
この部分はきれいな算木積みです。
新しく積みなおされたようです。
風呂屋門の跡です。
発掘中ですが、門の遺構は見つかっていません。
説明会には多くの見学者がいました。
発掘調査で見つかった軒丸瓦です。
立葵紋で、本多氏の時代のものです。
発掘調査は9月22日までです。
岡崎市のマンホールです。
岡崎城と帆かけ船がデザインされています。
小牧山城発掘調査現地説明会 [発掘調査現地説明会]
小牧山城の発掘調査現地説明会に参加しました。
説明会の様子です。
この日は雪の舞う寒い日でしたが、大勢の見学者が来ていました。
以前は1,000人の見学者が来ていたこともありましたが、雪もあって250人ほどでした。
発掘箇所です。
ピンクのⅤ区の部分です。
主郭に至る通路の部分です。
小牧山の模擬天守と発掘箇所の関係です。
思ったより下の部分でした。
当日配られた資料による石垣の位置図です。
堅い岩盤を垂直に削っています。
右方に入隅が見えます。
この下が通路で、ここで折れ曲がって登っていきます。
削った岩盤の上に石垣が一段見えます。
永禄期(織田信長在城)の面です。
かなり埋まっていることがわかります。
岩盤を削った跡です。
岩の性質によるのか、凸凹しています。
堅い岩盤のためきれいに整形することは難しかったようです。
調査区の遠景です。
岩盤の垂直がわかります。
垂直の壁が続いていることかよくわかります。
西の方の調査区です。
同様に岩盤の上に石垣です。
大手道はこんな感じに続いています。
もう一つの入隅です。
ここからどのように上につながるのかよくわかりません。
資料の復元図です。
この図によると入隅から一旦前に出で上に登ったようです。
色の付いている石が発掘によって確認されたもので、他の石は想定です。
こうしてみると小牧山城は、ほとんど総石垣の城ですね。
発掘調査区の全景です。
上の通路の様子です。
発掘調査区の西隅です。
転落石もあります。
小牧山南麓の復元土塁です。
かつては市役所がありましたが、移転により復元したものです。
来年度公開予定です。
雪が舞っています。
時折雪が降る、寒い中の現地説明会でした。
説明会の様子です。
この日は雪の舞う寒い日でしたが、大勢の見学者が来ていました。
以前は1,000人の見学者が来ていたこともありましたが、雪もあって250人ほどでした。
発掘箇所です。
ピンクのⅤ区の部分です。
主郭に至る通路の部分です。
小牧山の模擬天守と発掘箇所の関係です。
思ったより下の部分でした。
当日配られた資料による石垣の位置図です。
堅い岩盤を垂直に削っています。
右方に入隅が見えます。
この下が通路で、ここで折れ曲がって登っていきます。
削った岩盤の上に石垣が一段見えます。
永禄期(織田信長在城)の面です。
かなり埋まっていることがわかります。
岩盤を削った跡です。
岩の性質によるのか、凸凹しています。
堅い岩盤のためきれいに整形することは難しかったようです。
調査区の遠景です。
岩盤の垂直がわかります。
垂直の壁が続いていることかよくわかります。
西の方の調査区です。
同様に岩盤の上に石垣です。
大手道はこんな感じに続いています。
もう一つの入隅です。
ここからどのように上につながるのかよくわかりません。
資料の復元図です。
この図によると入隅から一旦前に出で上に登ったようです。
色の付いている石が発掘によって確認されたもので、他の石は想定です。
こうしてみると小牧山城は、ほとんど総石垣の城ですね。
発掘調査区の全景です。
上の通路の様子です。
発掘調査区の西隅です。
転落石もあります。
小牧山南麓の復元土塁です。
かつては市役所がありましたが、移転により復元したものです。
来年度公開予定です。
雪が舞っています。
時折雪が降る、寒い中の現地説明会でした。
岐阜城織田信長館発掘調査現地説明会 その3 [発掘調査現地説明会]
岐阜城織田信長館発掘調査現地説明会の続きです。
今回の発掘は3ケ所で説明会がありました。
金箔瓦の建物の後で見つかった第7の庭園です。
山から流れる水を受けていたようです。
この池から伸びる溝も見つかっていて、御殿の各所に配水していた可能性があります。
石垣のとなりは大きな岩盤が露出しています。
出土品です。
天目茶碗と水指(建水か)です。
染付碗です。
出土品は少なめです。
御殿跡なので生活痕があるはずですが、廃城後に撤去されたのでしょうか。
蹲踞(つくばい)です。
花崗岩製の手水鉢です。
池の中から出土しました。
軒丸瓦です。
御殿の建物は瓦葺きではなく、杮葺きなどが多かったと思われますが、一部は瓦葺きだったようです。
以前は金箔瓦も出土しています。
御殿の上を走るロープウェイです。
ロープウェイの駅では戦国バサラのパネル展がやっていました。
明智光秀と竹中半兵衛です。
織田信長のペットボトルです。
いざ岐阜入城と書かれています。
織田信長岐阜入城450周年のコラボ商品です。
岐阜城山頂部の模型です。
岐阜城の顔出し看板です。
人物のものは多いけど、天守のものは珍しいです。
岐阜公園の門と信長像、後ろは岐阜城(金華山)です。
天守がかすかに見えます。
(終わり)
今回の発掘は3ケ所で説明会がありました。
金箔瓦の建物の後で見つかった第7の庭園です。
山から流れる水を受けていたようです。
この池から伸びる溝も見つかっていて、御殿の各所に配水していた可能性があります。
石垣のとなりは大きな岩盤が露出しています。
出土品です。
天目茶碗と水指(建水か)です。
染付碗です。
出土品は少なめです。
御殿跡なので生活痕があるはずですが、廃城後に撤去されたのでしょうか。
蹲踞(つくばい)です。
花崗岩製の手水鉢です。
池の中から出土しました。
軒丸瓦です。
御殿の建物は瓦葺きではなく、杮葺きなどが多かったと思われますが、一部は瓦葺きだったようです。
以前は金箔瓦も出土しています。
御殿の上を走るロープウェイです。
ロープウェイの駅では戦国バサラのパネル展がやっていました。
明智光秀と竹中半兵衛です。
織田信長のペットボトルです。
いざ岐阜入城と書かれています。
織田信長岐阜入城450周年のコラボ商品です。
岐阜城山頂部の模型です。
岐阜城の顔出し看板です。
人物のものは多いけど、天守のものは珍しいです。
岐阜公園の門と信長像、後ろは岐阜城(金華山)です。
天守がかすかに見えます。
(終わり)
岐阜城織田信長館発掘調査現地説明会 その2 [発掘調査現地説明会]
岐阜城織田信長館発掘調査現地説明会の続きです。
居館の主要部を下から見上げたところ。
裏込め石が散乱しています。
信長居館である千畳敷の模型です。
中央部が主要部です。
居館の主要部への入り口です。
礎石が確認されています。
居館部から入り口を見下ろしたところです。
主な石材は撤去されていて、裏込め石が残るのみなので、とても分かりにくいですが、穴蔵状の通路を登ったようです。
巨石列というのが大きな石を使った石垣を想定しています。
現地説明会の配布された資料から通路部分の模式図です。
通路を登ると巨石列があったようです。
突き当たると左に折れて登ります。
この部分の御殿を復元したCGです。
二階の御殿が石垣の上に建てられていました。
中央の唐破風の下にあるのが、御殿への入り口です。
熊本城の本丸御殿に似ています。
闇り通路のようなイメージです。
御殿の一部は懸け造りになっています。
狭隘な地形を有効利用するための工夫でしょう。
居館のCGの全体図です。
発掘調査を行っても、御殿の明確な礎石はほとんど出土せず、CGはフロイスの記述などを参考にしたあくまでも想像図です。
スロープの部分です。
スロープの途中で平たん部があり、踊り場だったのでしょうか。
兎に角破壊が激しく、不明確です。
岐阜城は関ヶ原合戦の前哨戦で落城して、御殿も焼け落ちたとされています。
江戸時代には御留め山として入山が禁止されていたので、廃城直後か明治以降に破壊されたようです。
地表の石材はかなり撤去されて、礎石もないほど表土も削られていたようです。
明治期にある程度石垣が残っていたならば、もう少し保存が図られていた気もしますが・・。
裏込め石がほとんどなので、よく説明を聴かないとなかなか理解が難しい現場でした。
スロープ部分です。
階段だったのか、坂だったのかは不明です。
(続く)
居館の主要部を下から見上げたところ。
裏込め石が散乱しています。
信長居館である千畳敷の模型です。
中央部が主要部です。
居館の主要部への入り口です。
礎石が確認されています。
居館部から入り口を見下ろしたところです。
主な石材は撤去されていて、裏込め石が残るのみなので、とても分かりにくいですが、穴蔵状の通路を登ったようです。
巨石列というのが大きな石を使った石垣を想定しています。
現地説明会の配布された資料から通路部分の模式図です。
通路を登ると巨石列があったようです。
突き当たると左に折れて登ります。
この部分の御殿を復元したCGです。
二階の御殿が石垣の上に建てられていました。
中央の唐破風の下にあるのが、御殿への入り口です。
熊本城の本丸御殿に似ています。
闇り通路のようなイメージです。
御殿の一部は懸け造りになっています。
狭隘な地形を有効利用するための工夫でしょう。
居館のCGの全体図です。
発掘調査を行っても、御殿の明確な礎石はほとんど出土せず、CGはフロイスの記述などを参考にしたあくまでも想像図です。
スロープの部分です。
スロープの途中で平たん部があり、踊り場だったのでしょうか。
兎に角破壊が激しく、不明確です。
岐阜城は関ヶ原合戦の前哨戦で落城して、御殿も焼け落ちたとされています。
江戸時代には御留め山として入山が禁止されていたので、廃城直後か明治以降に破壊されたようです。
地表の石材はかなり撤去されて、礎石もないほど表土も削られていたようです。
明治期にある程度石垣が残っていたならば、もう少し保存が図られていた気もしますが・・。
裏込め石がほとんどなので、よく説明を聴かないとなかなか理解が難しい現場でした。
スロープ部分です。
階段だったのか、坂だったのかは不明です。
(続く)
岐阜城織田信長館発掘調査現地説明会 [発掘調査現地説明会]
2月4日に開催された岐阜城織田信長館発掘調査現地説明会に行って来ました。
もう何年も調査が続いています。
この日も寒い一日でしたが、織田信長居館のネームバリューは高く、多くの歴史ファンが詰めかけていました。
今回は何か所も掘っていて、成果も出ていました。
まず、最初の発掘ヶ所です。
小川が流れる小渓谷を掘りました。奥の橋は後世のものです。
ここから渓谷に架かる橋脚の礎石が見つかりました。
上から見た図です。
今までも渓谷に橋が架かっていたのではと想定されていましたが、考古学的にそれが確認されたことは今回が初めてです。
ただ、見つかったのは礎石1つです。
水路の中には景石と呼ばれる景観のための石もあったという説明でしたが、実際はどうなのでしょうか。
段部には石により段差が付けられていて、ここが小さな滝のようになり目を楽しませるようになっていました。
石垣はこの付近ではかなり破壊されていて、最下部のみでした。
近くの石垣の様子です。
写真の右のほうが信長時代の石垣です。
比較的大きな石を使っていて、横目地が通っています。
その上の小さな石は後世のものです。
織田信長居館のCG図です。
中央の橋が今回の発掘調査で確認されたものです。
橋の部分のCGです。
廊下橋を復元しています。
京都の東福寺の通天橋をモデルにしていますが、あくまでも想像図です。
先のCGで左側に描かれていた庭園付近です。
三重塔の下に巨大な岩壁がありますが、この下に以前の発掘で庭園が見つかっています。
この岩壁に滝を作っていたと想定しています。
石垣の石は崩壊していましたが、裏込め石が見つかりかなりの高石垣だったことが判明しました。
下部の石垣です。
大きな石を使った野面積みです。
石垣の上部です。
表面の石は飛んでいますが、裏込め石が大量にあります。
後には大きめの石列があります。
今一つ関係性がよく分かりません。
膨大な量の裏込め石です。
(続く)
もう何年も調査が続いています。
この日も寒い一日でしたが、織田信長居館のネームバリューは高く、多くの歴史ファンが詰めかけていました。
今回は何か所も掘っていて、成果も出ていました。
まず、最初の発掘ヶ所です。
小川が流れる小渓谷を掘りました。奥の橋は後世のものです。
ここから渓谷に架かる橋脚の礎石が見つかりました。
上から見た図です。
今までも渓谷に橋が架かっていたのではと想定されていましたが、考古学的にそれが確認されたことは今回が初めてです。
ただ、見つかったのは礎石1つです。
水路の中には景石と呼ばれる景観のための石もあったという説明でしたが、実際はどうなのでしょうか。
段部には石により段差が付けられていて、ここが小さな滝のようになり目を楽しませるようになっていました。
石垣はこの付近ではかなり破壊されていて、最下部のみでした。
近くの石垣の様子です。
写真の右のほうが信長時代の石垣です。
比較的大きな石を使っていて、横目地が通っています。
その上の小さな石は後世のものです。
織田信長居館のCG図です。
中央の橋が今回の発掘調査で確認されたものです。
橋の部分のCGです。
廊下橋を復元しています。
京都の東福寺の通天橋をモデルにしていますが、あくまでも想像図です。
先のCGで左側に描かれていた庭園付近です。
三重塔の下に巨大な岩壁がありますが、この下に以前の発掘で庭園が見つかっています。
この岩壁に滝を作っていたと想定しています。
石垣の石は崩壊していましたが、裏込め石が見つかりかなりの高石垣だったことが判明しました。
下部の石垣です。
大きな石を使った野面積みです。
石垣の上部です。
表面の石は飛んでいますが、裏込め石が大量にあります。
後には大きめの石列があります。
今一つ関係性がよく分かりません。
膨大な量の裏込め石です。
(続く)