大垣市たらい船 [歴史雑話]
大垣市は水郷です。
お城の堀は埋め建てられてしまいましたが、川は市内に流れています。
川ではたらいに乗ることができます。
不安定そうですが、大丈夫です。
関ヶ原合戦での大垣城の籠城の際に、たらいに乗って城を脱出したおあむ物語に因むイベントです。
かつてはありませんでしたが、観光のために作られました。
大垣市のマンホールです。
お城ではなく、川と船がデザインされています。
カラー版です。
こちらは塗装してないものです。
お城の堀は埋め建てられてしまいましたが、川は市内に流れています。
川ではたらいに乗ることができます。
不安定そうですが、大丈夫です。
関ヶ原合戦での大垣城の籠城の際に、たらいに乗って城を脱出したおあむ物語に因むイベントです。
かつてはありませんでしたが、観光のために作られました。
大垣市のマンホールです。
お城ではなく、川と船がデザインされています。
カラー版です。
こちらは塗装してないものです。
青塚古墳 [歴史雑話]
姉川古戦場・陣杭の柳 [歴史雑話]
姉川古戦場です。
姉川合戦における織田信長の本陣跡です。
合戦の朝は織田信長はこの東の龍ケ鼻砦にいましたが、浅井軍の姉川北岸への進出を聞いて、ここに布陣しました。
ここに立つ柳には信長が陣太鼓をかけて指揮をしたという伝承があります。
陣杭は本来陣鼓と書かれたとも言われます。
一方で、信長の本陣に使われた柵が自生したとも言われます。
龍鼻の郷の石碑です。
陣杭の柳です。
現在の柳は平成元年に3代目の木から枝を取った4代目です。
もともとは約10m北西にありましたが、平成9年の圃場整備により移築されました。
柳は尾上柳という種類です。
織田信長が始めに本陣を置いた龍ケ鼻砦です。
小高い山で、古墳がたくさんありました。
古墳を利用して陣地が作られていたのでしょうか。
姉川合戦における織田信長の本陣跡です。
合戦の朝は織田信長はこの東の龍ケ鼻砦にいましたが、浅井軍の姉川北岸への進出を聞いて、ここに布陣しました。
ここに立つ柳には信長が陣太鼓をかけて指揮をしたという伝承があります。
陣杭は本来陣鼓と書かれたとも言われます。
一方で、信長の本陣に使われた柵が自生したとも言われます。
龍鼻の郷の石碑です。
陣杭の柳です。
現在の柳は平成元年に3代目の木から枝を取った4代目です。
もともとは約10m北西にありましたが、平成9年の圃場整備により移築されました。
柳は尾上柳という種類です。
織田信長が始めに本陣を置いた龍ケ鼻砦です。
小高い山で、古墳がたくさんありました。
古墳を利用して陣地が作られていたのでしょうか。
姉川古戦場・遠藤直経の墓 [歴史雑話]
姉川古戦場にある遠藤直経の墓です。
遠藤氏は浅井氏の重臣です。
田の中にあります。
説明板です。
遠藤直経が討ち死にした場所と伝えられます。
字も円藤といいます。
かつてはこの説明板の40m北の田の中に遠藤塚と呼ばれる塚がありました。
遠藤直経の墓と伝えられます。
昭和54年に墓標が建てられました。
平成9年の圃場整備の際に現在地に移されました。
ここでも圃場整備により史跡が消滅しました。
遠藤直経は姉川合戦の時に浅井軍の敗色が濃くなると味方の武将首1つを携えて敵軍に偽装して織田軍の陣深く忍び込みました。
織田信長を討ち取るためです。
しかし、竹中重矩(半兵衛の弟)に見破られて討ち死にしました。
遠藤氏は浅井氏の重臣です。
田の中にあります。
説明板です。
遠藤直経が討ち死にした場所と伝えられます。
字も円藤といいます。
かつてはこの説明板の40m北の田の中に遠藤塚と呼ばれる塚がありました。
遠藤直経の墓と伝えられます。
昭和54年に墓標が建てられました。
平成9年の圃場整備の際に現在地に移されました。
ここでも圃場整備により史跡が消滅しました。
遠藤直経は姉川合戦の時に浅井軍の敗色が濃くなると味方の武将首1つを携えて敵軍に偽装して織田軍の陣深く忍び込みました。
織田信長を討ち取るためです。
しかし、竹中重矩(半兵衛の弟)に見破られて討ち死にしました。
姉川古戦場・血川 [歴史雑話]
姉川古戦場の血川です。
姉川合戦は当初浅井・朝倉軍が優勢でしたが、西美濃三人衆や徳川氏の加勢により織田軍が勝利しました。
この看板の浅井軍が軍を置いた野村集落の南にあたります。
また、この看板から南東300mにある塚町は姉川合戦の戦死者を葬った場所と伝えられます。
この看板の下にはかつて血川と言う幅数mの川が流れていました。
姉川合戦時には血で染まったと言われます。
しかし、昭和60年の圃場整備により川はなくなってしまいました。
姉川合戦の古絵図です。
赤は織田・徳川軍、黒は浅井・朝倉軍です。
姉川を挟んで対峙している様子がわかります。
陣屋橋です。
姉川のほとりに建つ姉川の合戦場の碑です。
本当にあちらこちらに看板があり、地元の熱意が伝わります。
姉川合戦は当初浅井・朝倉軍が優勢でしたが、西美濃三人衆や徳川氏の加勢により織田軍が勝利しました。
この看板の浅井軍が軍を置いた野村集落の南にあたります。
また、この看板から南東300mにある塚町は姉川合戦の戦死者を葬った場所と伝えられます。
この看板の下にはかつて血川と言う幅数mの川が流れていました。
姉川合戦時には血で染まったと言われます。
しかし、昭和60年の圃場整備により川はなくなってしまいました。
姉川合戦の古絵図です。
赤は織田・徳川軍、黒は浅井・朝倉軍です。
姉川を挟んで対峙している様子がわかります。
陣屋橋です。
姉川のほとりに建つ姉川の合戦場の碑です。
本当にあちらこちらに看板があり、地元の熱意が伝わります。
姉川古戦場・姉川 [歴史雑話]
姉川古戦場です。
姉川古戦場と言えばここの石碑が有名です。
元亀庚午古戦場と姉川戦死者之碑の二本の石碑が建てられています。
新しい看板です。
右は姉川です。
姉川にかかる野村橋です。
姉川です。
割と幅広い川です。
説明板です。
姉川古戦場の説明は丁寧でわかりやすいです。
姉川合戦の布陣図です。
織田軍2万3千 織田信長、佐久間信盛、森可成、柴田勝家、木下秀吉、池田恒興、丹羽長秀、坂井政尚
徳川軍6千 徳川家康、石川数正、酒井忠次、小笠原長忠
VS
浅井軍 8千 浅井長政、磯野員昌、浅井政澄、阿閉貞秀、新庄直頼
朝倉軍 1万 朝倉景健、前波新八郎、朝倉景紀
古戦場の地図です。
広い範囲に古戦場の史跡が散在しています。
地図があるとわかりやすいです。
姉川古戦場と言えばここの石碑が有名です。
元亀庚午古戦場と姉川戦死者之碑の二本の石碑が建てられています。
新しい看板です。
右は姉川です。
姉川にかかる野村橋です。
姉川です。
割と幅広い川です。
説明板です。
姉川古戦場の説明は丁寧でわかりやすいです。
姉川合戦の布陣図です。
織田軍2万3千 織田信長、佐久間信盛、森可成、柴田勝家、木下秀吉、池田恒興、丹羽長秀、坂井政尚
徳川軍6千 徳川家康、石川数正、酒井忠次、小笠原長忠
VS
浅井軍 8千 浅井長政、磯野員昌、浅井政澄、阿閉貞秀、新庄直頼
朝倉軍 1万 朝倉景健、前波新八郎、朝倉景紀
古戦場の地図です。
広い範囲に古戦場の史跡が散在しています。
地図があるとわかりやすいです。
姉川古戦場・陣田 [歴史雑話]
姉川古戦場の陣田です。
姉川合戦では元亀元年6月27日まで浅井長政は大依山に布陣して織田軍と対峙していました。
6月28日に重臣の遠藤直経の進言に従いこの陣田に陣を進めました。
昭和60年の圃場整備まで陣田と呼ばれる小高い丘があり、浅井長政の本陣跡と伝えられてきました。
野村に布陣した浅井軍を長政の本陣に相応しい場所でした。
現在は看板が建つのみで新しい田畑が広がる土地ですが、かつて激しい戦いがあったと想像すると感無量です。
圃場整備の際に残してもらえるとよかったですが、仕方ないことでしょうか。
野村集落内には土塁が残り、野村氏や多賀氏などの浅井氏の家臣の屋敷跡と言われていますが、姉川合戦の浅井氏の陣地として利用された可能性もあるようです。
姉川合戦では元亀元年6月27日まで浅井長政は大依山に布陣して織田軍と対峙していました。
6月28日に重臣の遠藤直経の進言に従いこの陣田に陣を進めました。
昭和60年の圃場整備まで陣田と呼ばれる小高い丘があり、浅井長政の本陣跡と伝えられてきました。
野村に布陣した浅井軍を長政の本陣に相応しい場所でした。
現在は看板が建つのみで新しい田畑が広がる土地ですが、かつて激しい戦いがあったと想像すると感無量です。
圃場整備の際に残してもらえるとよかったですが、仕方ないことでしょうか。
野村集落内には土塁が残り、野村氏や多賀氏などの浅井氏の家臣の屋敷跡と言われていますが、姉川合戦の浅井氏の陣地として利用された可能性もあるようです。
姉川古戦場・血原 [歴史雑話]
滋賀県長浜市の姉川古戦場です。
元亀元年(1570)6月28日に織田信長、徳川家康と浅井長政、朝倉義景が姉川で戦いました。
織田信長の妹お市の方は浅井長政の妻で、織田氏と浅井氏は同盟を結んでいましたが、織田信長が朝倉義景を攻めた際に、浅井氏は裏切って織田軍を攻めました。
織田信長は命からがら京都に逃げ帰り、軍備を整えて姉川で戦いました。
織田軍は浅井・朝倉軍の倍の人数であり、織田軍が勝利をおさめましたが、浅井軍も善戦しました。
織田軍3万、徳川軍5千と浅井、朝倉軍1万8千人が激突しました。
合戦は広い範囲で行われたので、あちらこちらに遺跡が残っています。
古戦場の石碑です。
ここはその一つ血原古戦場です。
両軍の死傷者は3千名に及び、土地が血に染まり血原と呼ばれました。
近くには血川という地名もあります。
姉川合戦で有名な武将は朝倉氏の家臣の真柄十郎左衛門直隆です。
真柄直隆は剛力で刃長五尺三寸(160センチ)の大太刀を振るって奮戦しました。
徳川氏の家臣向坂式部と弟の向坂吉政が討ち取りました。
『信長公記』は青木一重が討ち取ったとされています。
石碑の周辺は古戦場公園になっています。
周囲は田園地帯です。
遠くの左手に見える山が小谷城です。
元亀元年(1570)6月28日に織田信長、徳川家康と浅井長政、朝倉義景が姉川で戦いました。
織田信長の妹お市の方は浅井長政の妻で、織田氏と浅井氏は同盟を結んでいましたが、織田信長が朝倉義景を攻めた際に、浅井氏は裏切って織田軍を攻めました。
織田信長は命からがら京都に逃げ帰り、軍備を整えて姉川で戦いました。
織田軍は浅井・朝倉軍の倍の人数であり、織田軍が勝利をおさめましたが、浅井軍も善戦しました。
織田軍3万、徳川軍5千と浅井、朝倉軍1万8千人が激突しました。
合戦は広い範囲で行われたので、あちらこちらに遺跡が残っています。
古戦場の石碑です。
ここはその一つ血原古戦場です。
両軍の死傷者は3千名に及び、土地が血に染まり血原と呼ばれました。
近くには血川という地名もあります。
姉川合戦で有名な武将は朝倉氏の家臣の真柄十郎左衛門直隆です。
真柄直隆は剛力で刃長五尺三寸(160センチ)の大太刀を振るって奮戦しました。
徳川氏の家臣向坂式部と弟の向坂吉政が討ち取りました。
『信長公記』は青木一重が討ち取ったとされています。
石碑の周辺は古戦場公園になっています。
周囲は田園地帯です。
遠くの左手に見える山が小谷城です。