上田原古戦場 その2 [歴史雑話]

上田原古戦場の続きです。

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上田古戦場公園になっています。

でも野球場や多目的グランドになっています。

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古戦場の説明もあります。

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板垣信方の墓です。

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板垣神社になっています。

神社は質素な神社です。

板垣信方の墓をご神体として鳥居を立てただけの神社です。

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板垣信方の墓が神体です。

信方がタバコが好きだったので、墓前に煙草を供える人が多いです。

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説明です。

板垣駿河守信方は武田信玄の重臣です。

天文11年、諏訪攻略の副将となり、諏訪郡代になりました。

信方は上田原合戦でこの下之条付近で討ち死にしました。

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真田丸の放映で説明板も新調されていました。

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屋代源吾の墓です。

屋代源吾は村上義清の家臣で、屋代城主でした。

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説明です。

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木の下に屋代源吾の墓があります。

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小島権兵衛の墓です。

小島権兵衛は村上氏の家臣です。

看板の上に見える樹が屋代源吾の墓です。

上田原古戦場では戦死地に墓がよく残されています。

特に村上氏の家臣の墓がよく残されているのは、上田市が村上氏の地元の領地であったせいもあるでしょう。

上田原合戦は武田信玄が大敗した戦いと言われていますが、村上氏の家臣の墓も多くあることから、村上氏もかなりの痛手を被っていたようです。

上田原古戦場が都会ではなく、開発がされていないこともよく残った一因でしょう。

小牧長久手古戦場や桶狭間合戦古戦場では宅地化で雰囲気はほとんど残っていません。

上田原古戦場は雰囲気がよく残された古戦場です。

近くには物見山、合図山、御陣ケ入、御陣ケ原、鉦ケ窪、味方原など合戦に因んだ地名も多く残されています。

(終わり)

上田原古戦場 [歴史雑話]

上田原古戦場です。

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石久摩神社です。

ここに石碑があります。

上田原合戦は武田信玄と村上義清が天分17年(1548)に戦った合戦です。

武田信玄の数少ない負け戦でした。

武田氏は板垣信方など有力武将を失い、信玄自身も負傷しました。

村上義清とは天文19年にも砥石城を攻めたときにも負け(砥石崩れ)ており、信玄にとっては鬼門でした。

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石碑です。

日暮れだったので少し暗いです。

昭和44年に有志により建てられました。

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境内に説明があります。

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鳥居の隣にも古戦場の説明の碑があります。

地元ではかなり顕彰されています。

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石久摩神社の本殿です。

創立年代は不明ですが、上田原村の産土神で、文政10年に明神社から石久摩神社に改称しました。

祭神は、諏訪大明神、建御名方尊、大己貴尊、事代主尊です。

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神社の裏にある上田原合戦の無名戦士の墓です。

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近くには村上方の武将雨宮刑部の墓です。

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上田原合戦では、武田氏は板垣信方、甘利虎泰、才間河内守などが討ち死にしましたが、村上方も重臣の雨宮刑部、屋代源吾などが討ち死にしています。

武田氏が敗戦したとは言っても村上氏もかなり痛手を負いました。

(続く)

碧海山古墳 [歴史雑話]

愛知県安城市桜井町にある碧海山古墳です。

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碧海山古墳は円墳です。

直径25m、高さ4mです。

山頂は平坦です。

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石碑です。

古そうで、古くから古墳が親しまれていることがわかります。

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住宅地の中にあり、よく残されたと思います。

碧海山古墳は、古墳時代の前半期のものです。

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安城市の桜井地区には前半期の古墳が多くあります。

古代では勢力のある豪族がいたと推定されます。

二子古墳 [歴史雑話]

愛知県安城市桜井町にある二子古墳です。

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古墳の前に大きな石碑が建てられています。

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古墳の墳丘です。

前方部から後方部を見上げたところです。

きれいに整備されていてとても見やすいです。

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二子古墳の測量図です。

二子古墳は全長68.2m、前方部幅29.6m、後方部幅36.2mの前方後方墳です。

前方後円墳ではありません。

前方部高さ4.3m、後方部高さ7.0mです。

矢作川流域では西尾市の正法寺古墳に次ぐ大規模な古墳です。

築造年代は3世紀後半から4世紀初頭と推定されています。

国指定史跡です。

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後方部には桜井天神社が建てられていました。

今は石碑のみです。

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後方部から見下ろした前方部です。

形がよくわかります。

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古墳の近くは新幹線が走っています。

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墳丘には松が生えていて、きれいです。

よく手入れされています。

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二子古墳の全景です。

形がよくわかります。

造山古墳 [歴史雑話]

造山古墳は岡山県北区新庄下にある前方後円墳です。

全長350mの大きな古墳です。

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遠くから見ると小山のようです。

5世紀に作られたものです。

前方部に荒神社があり、その前に石を刳り抜いた石棺が置かれています。

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造山古墳の近くにある千足古墳です。

整備中でした。

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千足古墳は装飾古墳で、石室の保護のために固めているようでした。

貝殻山貝塚 [歴史雑話]

貝殻山貝塚は愛知県清須市にあります。

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今は公園になっています。

左後ろの小山が貝塚です。

貝塚は埋まっているので、表面上はわかりません。

弥生時代の遺跡です。

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公園内に復元されている竪穴式住居です。

これがないと遺跡とはわかりません。

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内部です。

松菊里型住居と呼ばれています。

韓国忠清南道の松菊里遺跡で発見された住居を標識とするためにこう呼ばれています。

建物中央に大きな穴(囲炉裏)があります。

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遺跡の地図です。

遺跡の大半は東名阪道とR22バイパスが交叉する地点にあたり、地下に埋もれています。

東海地方最大の弥生集落朝日遺跡です。

環濠集落で何重もの堀に囲まれていました。

吉野ヶ里遺跡に匹敵する大きな集落遺跡でしたが、何しろ交通の要衝にあるので、保存は難しかったのでしょうね。

公園内には貝殻山貝塚資料館があります。

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資料館に入ると銅鐸のレプリカが展示されています。

実際に音を鳴らすこともできます。

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パレス・スタイル土器です。

赤い土器です。

ギリシャのクレタ島から出土した「宮廷式土器」にも匹敵する美しさからパレス・スタイル土器と呼ばれています。

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重要文化財です。

赤色を際立たせるために、土器の土は白いものを使用しています。

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丸窓付土器です。

穴が開いた珍しい土器です。

どうやって使ったかは不明ですが、墓地域から出土しているので、祭祀に使用されたと思われます。

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勾玉と管玉を連ねたネックレスです。

とてもきれいなものです。

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打製石族です。













おんな城主 直虎 大河ドラマ館 [歴史雑話]

おんな城主 直虎 大河ドラマ館です。

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浜松市みをつくし文化センターホールにあります。

浜松市北区細江町気賀にあります。

かなり賑わっていて入るのに行列が出来ていました。

これから更に混み合いそうな予感です。

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入口は井伊氏の館をイメージしています。

入場料は600円です。

最近では大河ドラマを放送すると舞台となった地にドラマ館なるものを建設します。

あくまでもドラマ館なので、撮影に使った衣装や小道具の展示やパネル展示が中心です。

ドラマのあらすじを知るには便利なので、観光客には人気あります。

歴史を詳しく知りたい人には少し物足らなく感じます。

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中は撮影禁止の場所が多いです。

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唯一撮影できるスポットがここです。

井伊の井戸です。

柴咲コウの次郎法師が佇みます。

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橘の木と直親(亀之丞)です。

物語のキーワードとなる井戸と橘の木が象徴的です。


戦国の井伊谷 [歴史雑話]

浜松市地域遺産センターでは、大河ドラマに合わせて特別展戦国の井伊谷が開かれています。

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井伊谷城跡の麓にあります。

後ろに見える山が井伊谷城です。

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入り口を入ると記念撮影用の大きな笛があります。

亀之丞の吹いていた笛と次郎法師(直虎)です。

次郎法師はなぜかウナギを持ち、虎の尻尾が生えています。

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展示は二階にあります。

入館料はうれしいことに無料です。

内容もしっかりしていて、井伊氏の歴史を学べます。

浜松には他に大河ドラマ館もありますが、井伊氏の歴史を学ぶならばこちらがお勧めです。

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井伊直虎・関口氏経連署状です。

永禄11年のもので、徳政令を命じたものです。

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龍潭寺の絵図です。

彩色されていてきれいです。

大きな寺院であったことがわかります。

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南渓瑞聞頂相です。

龍潭寺の二代目住職です。

井伊直平の子とされていますが、過去帳には別の父が書かれていて、養子の可能性もあります。

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井伊谷城と井伊氏居館の模型です。

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井伊谷城(左上)と井伊氏の居館の絵図です。

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井伊氏居館の絵図です。

大手門と搦手門があり、周囲に石垣と堀がありました。

石垣と堀は正面と西側だけ描かれています。

中には井戸や庭園跡、井伊大明神などがありました。

井伊直親の墓 [歴史雑話]

井伊直親の墓です。

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浜松市北区細江町にあります。

井伊谷とは少し離れています。

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井伊直親は直満の子で、直満が家臣の讒言のため今川義元に殺されたときは9歳で、信州の松源寺に逃れました。

大河ドラマでは亀の丞です。

弘治元年(1555)20歳の時井伊谷に戻り、直盛の養子となり、奥山因幡守の娘と結婚し、祝田に住みます。

ところが、永禄5年(1562)家臣の小野但馬(鶴)が今川氏真に讒言したため、弁明のため駿河に向かったが途中で朝比奈備中守に殺されます。

遺体はここに運ばれて都田河畔で火葬されて墓が建てられました。

法名は大藤寺殿剣峯宗恵大居士です。

直親の子が井伊直政です。

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彦根藩主井伊直弼が寄進した灯篭です。

直弼は直政の子孫です。

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灯篭には井伊家の家紋である橘が刻まれています。

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井伊直親の墓は以前は200mほど東にありましたが、河川改修のため移設されました。

現在は都田川の堤防の下にあり、とても行きにくいところです。

堤防上の道路から降りれますが、堤防の道路は狭く、堤防上に駐車するしかありませんが、とても困ります。

今後はさらに観光客が増えるので込み合いそうです。

伝井伊共保出生井 [歴史雑話]

伝井伊共保出生井です。

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寛弘7年(1010)に井伊家初代共保が生まれたと伝わる井戸です。

田の中にあります。

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井戸です。

共保は遠江国司として志津城を居城とした藤原共資の養子となり、井伊谷に移り、姓を井伊としました。

この井戸は井伊氏の聖地とされて、歴代彦根藩主が整備を繰り返し行っています。

井戸の傍らに橘の木が生えていたため、井伊氏は橘を家紋としました。

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新しい説明が建てられていました。

龍潭寺のすぐ近くにあり、去年まではほとんど訪ねる人もいなかったであろうここにも観光客が押し寄せていました。

大河ドラマおんな城主直虎でも井戸が大きなモチーフとして使われていましたが、こういう謂れがあったために使用したのですね。
なるほど。

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井戸の傍らにある供養塔です。

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旧引佐町のマンホールです。

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