名胡桃城 その3 [お城踏査]
名胡桃城の続きです。
三郭です。
舗装されているところは建物跡です。
三郭の説明です。
三郭も全面発掘されています。
発掘調査の拡大図です。
青い部分が建物跡です。
注目すべきことに三郭からも丸馬出が見つかっています。
こちらの丸馬出はきれいな弧を描いています。
武田氏によるものです。
丸馬出は堀を復元せずに白い舗装で復元されています。
二郭から見た三郭です。
丸馬出がきれいに見えます。
(続く)
三郭です。
舗装されているところは建物跡です。
三郭の説明です。
三郭も全面発掘されています。
発掘調査の拡大図です。
青い部分が建物跡です。
注目すべきことに三郭からも丸馬出が見つかっています。
こちらの丸馬出はきれいな弧を描いています。
武田氏によるものです。
丸馬出は堀を復元せずに白い舗装で復元されています。
二郭から見た三郭です。
丸馬出がきれいに見えます。
(続く)
名胡桃城 その2 [お城踏査]
名胡桃城の続きです。
名胡桃城は室町時代に沼田城の支城として沼田氏が築きました。
天正7年に武田勝頼が沼田城を攻めるために真田昌幸に命じて改修して築きました。
名胡桃城の馬出はこの時に築かれたと思われます。
その後真田氏は沼田城を攻略します。
天正15年に豊臣秀吉が戦争を禁じる総無事令を出します。
その時に名胡桃城を含む三分の一を真田氏に、沼田城を含む残りを北条氏の領地としました。
これを不服に思った北条氏は名胡桃城を奪取して、これをきっかけに小田原合戦に向かいます。
名胡桃城が秀吉の小田原攻めの始まりになりました。
幟にも歴史を変えた城 名胡桃城と書かれています。
三郭の前の丸馬出です。
発掘調査の結果見つかりましたが、堀は復元されていません。
薄い色の舗装が曲輪です。
丸馬出なので孤を描いています。
濃い色の舗装は橋を示しています。
馬出の説明です。
丸馬出は武田氏の築城術の一つです。
武田勝頼の命で真田昌幸が築いた時に使われたと思われます。
馬出部分の発掘調査の図です。
馬出から見た三郭です。
門は柱で示されています。
三郭から見た丸馬出です。
馬出は比較的小さな曲輪です。
三郭の堀です。
(続く)
名胡桃城は室町時代に沼田城の支城として沼田氏が築きました。
天正7年に武田勝頼が沼田城を攻めるために真田昌幸に命じて改修して築きました。
名胡桃城の馬出はこの時に築かれたと思われます。
その後真田氏は沼田城を攻略します。
天正15年に豊臣秀吉が戦争を禁じる総無事令を出します。
その時に名胡桃城を含む三分の一を真田氏に、沼田城を含む残りを北条氏の領地としました。
これを不服に思った北条氏は名胡桃城を奪取して、これをきっかけに小田原合戦に向かいます。
名胡桃城が秀吉の小田原攻めの始まりになりました。
幟にも歴史を変えた城 名胡桃城と書かれています。
三郭の前の丸馬出です。
発掘調査の結果見つかりましたが、堀は復元されていません。
薄い色の舗装が曲輪です。
丸馬出なので孤を描いています。
濃い色の舗装は橋を示しています。
馬出の説明です。
丸馬出は武田氏の築城術の一つです。
武田勝頼の命で真田昌幸が築いた時に使われたと思われます。
馬出部分の発掘調査の図です。
馬出から見た三郭です。
門は柱で示されています。
三郭から見た丸馬出です。
馬出は比較的小さな曲輪です。
三郭の堀です。
(続く)
浜松城発掘調査現地説明会 [発掘調査現地説明会]
浜松城発掘調査現地説明会に行って来ました。
天守曲輪の発掘調査です。
たいへん多くの人が参加していました。
お城の人気はすごいものがありますね。
浜松城の発掘調査の公開は随時行われていますが、説明会は今日が初めてです。
浜松城は天守門が復元されましたが、その両サイドに土塀が少し復元されています。
計画では天守曲輪全体に土塀を復元するための調査です。
今回は6ケ所のトレンチを入れています。
トレンチを入れると石垣が現れました。
別のトレンチです。
1m以上のかなり深く入れています。
木の根が見えます。
石は比較的小さめです。
トレンチの土層を見てもかなり埋められていることがわかります。
この写真を見ても現状と江戸時代の様子とかなり異なることがわかります。
高いところでは石垣の高さは2mちかくあったようです。
これは戦後に浜松城跡に遊園地が作られて、土塁上に電車が走っていたようですが、その時に天守曲輪にかなり盛り土をしたようです。
今回の結果を受けて、今後土塁と土塀の復元整備をどうするか検討するそうです。
土塀の建設は未定です。
発掘調査で見つかった塀瓦です。
三つ巴の軒丸瓦と太田氏の桔梗紋瓦です。
松平氏の繋九目結紋軒丸瓦と斜格子軒平瓦です。
堀尾氏の軒丸瓦です。
天守曲輪の発掘調査です。
たいへん多くの人が参加していました。
お城の人気はすごいものがありますね。
浜松城の発掘調査の公開は随時行われていますが、説明会は今日が初めてです。
浜松城は天守門が復元されましたが、その両サイドに土塀が少し復元されています。
計画では天守曲輪全体に土塀を復元するための調査です。
今回は6ケ所のトレンチを入れています。
トレンチを入れると石垣が現れました。
別のトレンチです。
1m以上のかなり深く入れています。
木の根が見えます。
石は比較的小さめです。
トレンチの土層を見てもかなり埋められていることがわかります。
この写真を見ても現状と江戸時代の様子とかなり異なることがわかります。
高いところでは石垣の高さは2mちかくあったようです。
これは戦後に浜松城跡に遊園地が作られて、土塁上に電車が走っていたようですが、その時に天守曲輪にかなり盛り土をしたようです。
今回の結果を受けて、今後土塁と土塀の復元整備をどうするか検討するそうです。
土塀の建設は未定です。
発掘調査で見つかった塀瓦です。
三つ巴の軒丸瓦と太田氏の桔梗紋瓦です。
松平氏の繋九目結紋軒丸瓦と斜格子軒平瓦です。
堀尾氏の軒丸瓦です。
鳥取城フォーラム2018 鳥取城跡の植栽 [お城情報]
お城のイベントの案内です。
歴史分野ではなく、植生についてです。
鳥取城フォーラム2018 鳥取城跡の植栽
日 時 2018年2月17日(土)14:00~
場 所 鳥取市歴史博物館(鳥取市上町88)
参加費 無料
定 員 90名(申込不要)
内 容
基調講演
「鳥取城のサクラ」佐々木隆文氏(鳥取市教育委員会文化財課)
報告
「史跡鳥取城跡サクラ保存管理計画」細田隆博氏(鳥取市教育委員会文化財課)
トークイベント
テーマ 「鳥取城のこれから」
問合せ
鳥取市歴史博物館
℡0857-23-2140
歴史分野ではなく、植生についてです。
鳥取城フォーラム2018 鳥取城跡の植栽
日 時 2018年2月17日(土)14:00~
場 所 鳥取市歴史博物館(鳥取市上町88)
参加費 無料
定 員 90名(申込不要)
内 容
基調講演
「鳥取城のサクラ」佐々木隆文氏(鳥取市教育委員会文化財課)
報告
「史跡鳥取城跡サクラ保存管理計画」細田隆博氏(鳥取市教育委員会文化財課)
トークイベント
テーマ 「鳥取城のこれから」
問合せ
鳥取市歴史博物館
℡0857-23-2140
シンポジウム「古代の肥後と鞠智城」 [お城情報]
お城のシンポジウムの案内です。
シンポジウム「古代の肥後と鞠智城」
日 時 2018年2月10日(土) 13時~16時30分
場 所 菊池市文化会館(熊本県菊池市亘32)
定 員 200名
参加費 無料(申込不要)
内 容
(1)『肥後の国府と鞠智城』 熊本城調査研究センター 網田龍生氏 (2)『古代肥後の中の鞠智城』 歴史公園鞠智城・温故創生館 矢野裕介氏
(3)『鞠智城から菊池一族へ』 菊池市教育委員会 西住欣一郎氏
ディスカッション
コーディネーター 菊池市教育委員会 阿南 亨氏
問合せ
歴史公園鞠智城・温故創生館
℡0968-48-3178
シンポジウム「古代の肥後と鞠智城」
日 時 2018年2月10日(土) 13時~16時30分
場 所 菊池市文化会館(熊本県菊池市亘32)
定 員 200名
参加費 無料(申込不要)
内 容
(1)『肥後の国府と鞠智城』 熊本城調査研究センター 網田龍生氏 (2)『古代肥後の中の鞠智城』 歴史公園鞠智城・温故創生館 矢野裕介氏
(3)『鞠智城から菊池一族へ』 菊池市教育委員会 西住欣一郎氏
ディスカッション
コーディネーター 菊池市教育委員会 阿南 亨氏
問合せ
歴史公園鞠智城・温故創生館
℡0968-48-3178
名胡桃城@群馬県みなかみ町 [お城踏査]
名古屋城本丸御殿復元工事の現況 平成30年2月上旬 [名古屋城本丸御殿復元工事]
名古屋城本丸御殿復元工事の現況です。
第三期工事も順調に進み、外観はほぼ完成しています。
素屋根も取れていますが、内装工事の状況はわかりません。
写真奥が上洛殿です。
天守から見た本丸御殿の第三期工事部分です。
湯殿書院と上洛殿です。
外観上は完成しています。
内部の天井や襖、欄間などの工事でしょうか。
天守から見た西の丸です。
西の丸には本丸御殿の障壁画などを収蔵する収蔵庫を建てる予定ですが、いつの間にか基礎のコンクリートが打たれています。
西の丸にあった米蔵の外観を模して、中を収蔵庫にする予定です。
工事は粛々と進んでいるようです。
名古屋城の天守は木造再建のため、今年の5月7日から入場が出来なくなります。
石垣の問題やエレベーターの設置問題などでいろいろと問題になっているようですが、どうなのでしょうか。
名古屋城内の自販機の一部は、売り上げの一部を天守の木造再建の基金に寄付するようになっています。
本丸御殿の完成は今年の6月7日です。
いよいよ残り4ケ月となりました。
待ち遠しいです。
名古屋城の外では金シャチ横丁の工事が進められています。
土産店や飲食店が入ります。
こちらの完成も今年の春です。
名古屋城では蝋梅が満開です。
寒い日が続きますが、春はすぐそこまで来ています。
第三期工事も順調に進み、外観はほぼ完成しています。
素屋根も取れていますが、内装工事の状況はわかりません。
写真奥が上洛殿です。
天守から見た本丸御殿の第三期工事部分です。
湯殿書院と上洛殿です。
外観上は完成しています。
内部の天井や襖、欄間などの工事でしょうか。
天守から見た西の丸です。
西の丸には本丸御殿の障壁画などを収蔵する収蔵庫を建てる予定ですが、いつの間にか基礎のコンクリートが打たれています。
西の丸にあった米蔵の外観を模して、中を収蔵庫にする予定です。
工事は粛々と進んでいるようです。
名古屋城の天守は木造再建のため、今年の5月7日から入場が出来なくなります。
石垣の問題やエレベーターの設置問題などでいろいろと問題になっているようですが、どうなのでしょうか。
名古屋城内の自販機の一部は、売り上げの一部を天守の木造再建の基金に寄付するようになっています。
本丸御殿の完成は今年の6月7日です。
いよいよ残り4ケ月となりました。
待ち遠しいです。
名古屋城の外では金シャチ横丁の工事が進められています。
土産店や飲食店が入ります。
こちらの完成も今年の春です。
名古屋城では蝋梅が満開です。
寒い日が続きますが、春はすぐそこまで来ています。
シンポジウム「古代山城築城の意義」 [お城情報]
お城のシンポジウムの案内です。
シンポジウム「古代山城築城の意義」
日 時 2018年2月17日(土) 13時~16時30分
場 所 岡山大学自然科学研究科棟(岡山市北区津島中3-1-1)
定 員 200名
参加費 無料(申込不要)
内 容
「石垣構築技術から見た鬼ノ城の位置づけ」小澤佳憲氏(九州歴史資料館)
「古代山城の築城と集落動態からみた7.8世紀の吉備地域」南健太郎氏(岡山大学)
「古代山城の築城とその後―讃岐地域を事例として」渡邊誠氏(高松市埋蔵文化財センター)
討議
問合せ
考古学研究会事務局
℡086-255-7840
シンポジウム「古代山城築城の意義」
日 時 2018年2月17日(土) 13時~16時30分
場 所 岡山大学自然科学研究科棟(岡山市北区津島中3-1-1)
定 員 200名
参加費 無料(申込不要)
内 容
「石垣構築技術から見た鬼ノ城の位置づけ」小澤佳憲氏(九州歴史資料館)
「古代山城の築城と集落動態からみた7.8世紀の吉備地域」南健太郎氏(岡山大学)
「古代山城の築城とその後―讃岐地域を事例として」渡邊誠氏(高松市埋蔵文化財センター)
討議
問合せ
考古学研究会事務局
℡086-255-7840
箕輪城 その6 [お城踏査]
箕輪城の続きです。
最後に箕輪城の歴史について簡単に紹介します。
箕輪城は永正のはじめ1505年頃、長野尚業が築城したと伝えられます。
長野氏は上州の国衆で、なかでも尚業の二代後の長野業政が有名です。
戦国時代には武田信玄が上州に進出しますが、業政が善戦して武田氏を何度も跳ね返しました。
しかし、永禄4年に業政がなくなると武田氏の侵攻は激しくなり、ついに永禄9年(1566)に落城します。
武田氏は、内藤昌豊を城代として置き、箕輪城を改修します。
現在残る丸馬出は武田氏の時代の遺構と思われます。
天正10年に武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣滝川一益が支配しますが、同年本能寺の変で信長が横死すると北条氏の支配下となります。
しかし、天正18年に北条氏が滅亡すると、徳川家康の家臣の井伊直政が12万石で箕輪城主となります。
慶長3年(1598)に、直政は箕輪城を廃止して高崎城に移ります。
このように箕輪城は多くの城主の変遷がありますが、中でも武田氏を何度も破った長野業政は地元でも人気があります。
井伊直政は、昨年の大河ドラマおんな城主直虎によりクローズアップされました。
御前曲輪の堀です。
かなり広い堀です。
自然の他に地形も利用していると思われます。
三の丸です。
箕輪城は中世城郭ですが、城域は広大です。
三の丸の石垣です。
石は丸石で近くの河原石を使っています。
発掘調査の結果高さは4mにも及ぶことが判明しました。
石垣の背後に人頭大の河原石を階段状に積んだ古い石垣が見つかりました。
同様の石垣は埼玉県寄居町の鉢形城でも確認されていますので、後北条氏の石垣と思われます。
石垣は自然石を積んでいますが、ところどころ大きな石も使っています。
後に古い石垣が後北条氏のものとすると手前の石垣は井伊氏の時代でしょうか。
箕輪城を望みます。
箕輪城は小高い丘に築かれています。
長野業政と井伊直政の旗がなびいています。
(終わり)
最後に箕輪城の歴史について簡単に紹介します。
箕輪城は永正のはじめ1505年頃、長野尚業が築城したと伝えられます。
長野氏は上州の国衆で、なかでも尚業の二代後の長野業政が有名です。
戦国時代には武田信玄が上州に進出しますが、業政が善戦して武田氏を何度も跳ね返しました。
しかし、永禄4年に業政がなくなると武田氏の侵攻は激しくなり、ついに永禄9年(1566)に落城します。
武田氏は、内藤昌豊を城代として置き、箕輪城を改修します。
現在残る丸馬出は武田氏の時代の遺構と思われます。
天正10年に武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣滝川一益が支配しますが、同年本能寺の変で信長が横死すると北条氏の支配下となります。
しかし、天正18年に北条氏が滅亡すると、徳川家康の家臣の井伊直政が12万石で箕輪城主となります。
慶長3年(1598)に、直政は箕輪城を廃止して高崎城に移ります。
このように箕輪城は多くの城主の変遷がありますが、中でも武田氏を何度も破った長野業政は地元でも人気があります。
井伊直政は、昨年の大河ドラマおんな城主直虎によりクローズアップされました。
御前曲輪の堀です。
かなり広い堀です。
自然の他に地形も利用していると思われます。
三の丸です。
箕輪城は中世城郭ですが、城域は広大です。
三の丸の石垣です。
石は丸石で近くの河原石を使っています。
発掘調査の結果高さは4mにも及ぶことが判明しました。
石垣の背後に人頭大の河原石を階段状に積んだ古い石垣が見つかりました。
同様の石垣は埼玉県寄居町の鉢形城でも確認されていますので、後北条氏の石垣と思われます。
石垣は自然石を積んでいますが、ところどころ大きな石も使っています。
後に古い石垣が後北条氏のものとすると手前の石垣は井伊氏の時代でしょうか。
箕輪城を望みます。
箕輪城は小高い丘に築かれています。
長野業政と井伊直政の旗がなびいています。
(終わり)