名胡桃城@群馬県みなかみ町 [お城踏査]
名胡桃城は群馬県利根郡みなかみ町下津にあった中世城郭です。
みなかみ町は以前は月夜野町といいました。
一昨年の大河ドラマ真田丸で話題となりました。
とてもきれいに整備されています。
般若郭です。
今は駐車場となっています。
駐車場になる前には発掘調査が行われました。
発掘によると郭内には多数の掘立建物がありました。
般若郭は本郭のとなりに位置します。
いよいよ名胡桃城の本丸を目指します。
整備されていて案内板が豊富です。
発掘調査の概要図です。
ほぼ全城域を発掘しています。
名胡桃城の復元イメージ図です。
左が般若郭です。
右に連郭状に曲輪が並びます。
手前に丸馬出が見えます。
(続く)
みなかみ町は以前は月夜野町といいました。
一昨年の大河ドラマ真田丸で話題となりました。
とてもきれいに整備されています。
般若郭です。
今は駐車場となっています。
駐車場になる前には発掘調査が行われました。
発掘によると郭内には多数の掘立建物がありました。
般若郭は本郭のとなりに位置します。
いよいよ名胡桃城の本丸を目指します。
整備されていて案内板が豊富です。
発掘調査の概要図です。
ほぼ全城域を発掘しています。
名胡桃城の復元イメージ図です。
左が般若郭です。
右に連郭状に曲輪が並びます。
手前に丸馬出が見えます。
(続く)
箕輪城 その6 [お城踏査]
箕輪城の続きです。
最後に箕輪城の歴史について簡単に紹介します。
箕輪城は永正のはじめ1505年頃、長野尚業が築城したと伝えられます。
長野氏は上州の国衆で、なかでも尚業の二代後の長野業政が有名です。
戦国時代には武田信玄が上州に進出しますが、業政が善戦して武田氏を何度も跳ね返しました。
しかし、永禄4年に業政がなくなると武田氏の侵攻は激しくなり、ついに永禄9年(1566)に落城します。
武田氏は、内藤昌豊を城代として置き、箕輪城を改修します。
現在残る丸馬出は武田氏の時代の遺構と思われます。
天正10年に武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣滝川一益が支配しますが、同年本能寺の変で信長が横死すると北条氏の支配下となります。
しかし、天正18年に北条氏が滅亡すると、徳川家康の家臣の井伊直政が12万石で箕輪城主となります。
慶長3年(1598)に、直政は箕輪城を廃止して高崎城に移ります。
このように箕輪城は多くの城主の変遷がありますが、中でも武田氏を何度も破った長野業政は地元でも人気があります。
井伊直政は、昨年の大河ドラマおんな城主直虎によりクローズアップされました。
御前曲輪の堀です。
かなり広い堀です。
自然の他に地形も利用していると思われます。
三の丸です。
箕輪城は中世城郭ですが、城域は広大です。
三の丸の石垣です。
石は丸石で近くの河原石を使っています。
発掘調査の結果高さは4mにも及ぶことが判明しました。
石垣の背後に人頭大の河原石を階段状に積んだ古い石垣が見つかりました。
同様の石垣は埼玉県寄居町の鉢形城でも確認されていますので、後北条氏の石垣と思われます。
石垣は自然石を積んでいますが、ところどころ大きな石も使っています。
後に古い石垣が後北条氏のものとすると手前の石垣は井伊氏の時代でしょうか。
箕輪城を望みます。
箕輪城は小高い丘に築かれています。
長野業政と井伊直政の旗がなびいています。
(終わり)
最後に箕輪城の歴史について簡単に紹介します。
箕輪城は永正のはじめ1505年頃、長野尚業が築城したと伝えられます。
長野氏は上州の国衆で、なかでも尚業の二代後の長野業政が有名です。
戦国時代には武田信玄が上州に進出しますが、業政が善戦して武田氏を何度も跳ね返しました。
しかし、永禄4年に業政がなくなると武田氏の侵攻は激しくなり、ついに永禄9年(1566)に落城します。
武田氏は、内藤昌豊を城代として置き、箕輪城を改修します。
現在残る丸馬出は武田氏の時代の遺構と思われます。
天正10年に武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣滝川一益が支配しますが、同年本能寺の変で信長が横死すると北条氏の支配下となります。
しかし、天正18年に北条氏が滅亡すると、徳川家康の家臣の井伊直政が12万石で箕輪城主となります。
慶長3年(1598)に、直政は箕輪城を廃止して高崎城に移ります。
このように箕輪城は多くの城主の変遷がありますが、中でも武田氏を何度も破った長野業政は地元でも人気があります。
井伊直政は、昨年の大河ドラマおんな城主直虎によりクローズアップされました。
御前曲輪の堀です。
かなり広い堀です。
自然の他に地形も利用していると思われます。
三の丸です。
箕輪城は中世城郭ですが、城域は広大です。
三の丸の石垣です。
石は丸石で近くの河原石を使っています。
発掘調査の結果高さは4mにも及ぶことが判明しました。
石垣の背後に人頭大の河原石を階段状に積んだ古い石垣が見つかりました。
同様の石垣は埼玉県寄居町の鉢形城でも確認されていますので、後北条氏の石垣と思われます。
石垣は自然石を積んでいますが、ところどころ大きな石も使っています。
後に古い石垣が後北条氏のものとすると手前の石垣は井伊氏の時代でしょうか。
箕輪城を望みます。
箕輪城は小高い丘に築かれています。
長野業政と井伊直政の旗がなびいています。
(終わり)
箕輪城 その5 [お城踏査]
箕輪城 その4 [お城踏査]
箕輪城 その3 [お城踏査]
箕輪城 その2 [お城踏査]
箕輪城の続きです。
郭馬出です。
郭馬出西虎口門です。
平成27年に復元されました。
郭馬出の堀です。
広い横堀です。
左が復元された門です。
復元に際しては発掘調査されました。
礎石の配置から櫓門であることが判明して櫓門として復元されました。
瓦の出土はなく、板葺と推定されました。
櫓門の下部です。
とても太い立派に木材を使っています。
中世城郭でここまで立派な門だったのかと思います。
櫓が門の前に張りだしているのは石落しを復元しています。
雨落ち溝です。
溝が礎石から離れていることから石落しを想定しています。
内側から見た部分です。
角材がきれいに整形されています。
ここまできれいに鉋をかけなくてもいいのかな。
きれいすぎて城門らしくありません。
板塀です。
狭間が切られています。
櫓門の二階への階段です。
二階は非公開なので入れません。
城内から見た櫓門です。
城内側には窓がありません。
(続く)
郭馬出です。
郭馬出西虎口門です。
平成27年に復元されました。
郭馬出の堀です。
広い横堀です。
左が復元された門です。
復元に際しては発掘調査されました。
礎石の配置から櫓門であることが判明して櫓門として復元されました。
瓦の出土はなく、板葺と推定されました。
櫓門の下部です。
とても太い立派に木材を使っています。
中世城郭でここまで立派な門だったのかと思います。
櫓が門の前に張りだしているのは石落しを復元しています。
雨落ち溝です。
溝が礎石から離れていることから石落しを想定しています。
内側から見た部分です。
角材がきれいに整形されています。
ここまできれいに鉋をかけなくてもいいのかな。
きれいすぎて城門らしくありません。
板塀です。
狭間が切られています。
櫓門の二階への階段です。
二階は非公開なので入れません。
城内から見た櫓門です。
城内側には窓がありません。
(続く)
箕輪城@群馬県高崎市 [お城踏査]
北新波砦@群馬県高崎市 [お城踏査]
渋谷城@東京都渋谷区 [お城踏査]
江戸城牛込御門 [お城踏査]
江戸城牛込御門です。
牛込見附ともいいます。
見附とは城門の見張り番所のことです。
江戸城の門は主に枡形門でした。
今も赤坂見附などの地名も残っています。
牛込御門の石垣です。
江戸城には俗に三十六見附といい、36の城門があったとされています。
牛込見附はその一つです。
現在の飯田橋にありました。
道の両側に石垣が残っています。
牛込門の説明です。
隅石はきれいな算木積みになっています。
石垣の石は大きいです。
牛込御門は桝形門でしたが、桝形の遺構はなく、石垣の一部が残るのみです。
かなり大きな石垣が残っていますが、道ゆくひとはほとんど気が付いていないようです。
蔦が生えていて石垣も見にくくなっています。
牛込御門は阿波徳島藩主の蜂須賀氏によって作られました。
石には蜂須賀氏の名が刻印されています。
牛込見附ともいいます。
見附とは城門の見張り番所のことです。
江戸城の門は主に枡形門でした。
今も赤坂見附などの地名も残っています。
牛込御門の石垣です。
江戸城には俗に三十六見附といい、36の城門があったとされています。
牛込見附はその一つです。
現在の飯田橋にありました。
道の両側に石垣が残っています。
牛込門の説明です。
隅石はきれいな算木積みになっています。
石垣の石は大きいです。
牛込御門は桝形門でしたが、桝形の遺構はなく、石垣の一部が残るのみです。
かなり大きな石垣が残っていますが、道ゆくひとはほとんど気が付いていないようです。
蔦が生えていて石垣も見にくくなっています。
牛込御門は阿波徳島藩主の蜂須賀氏によって作られました。
石には蜂須賀氏の名が刻印されています。