牛込城@東京都新宿区 [お城踏査]
牛込城は東京都新宿区袋町にあった中世城郭です。
都心のど真ん中新宿にお城があったとは信じられませんが、都市化により遺構はありません。
現在は光照寺の境内になっています。
牛込氏の居館でした。
光照寺の本堂です。
牛込氏は群馬県の勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とします。
天文年間(1532-55)に大胡重行が南関東に移り後北条氏の家臣となります。
天文24年に重幸の子の勝行は牛込氏と改めて赤坂・桜田・日比谷付近を領しました。
天文18年の小田原合戦で後北条氏が滅びると徳川家康に仕えて牛込城は廃城となりました。
現在の光照寺は正保2年(1645)に神田から移転しました。
都心のど真ん中新宿にお城があったとは信じられませんが、都市化により遺構はありません。
現在は光照寺の境内になっています。
牛込氏の居館でした。
光照寺の本堂です。
牛込氏は群馬県の勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とします。
天文年間(1532-55)に大胡重行が南関東に移り後北条氏の家臣となります。
天文24年に重幸の子の勝行は牛込氏と改めて赤坂・桜田・日比谷付近を領しました。
天文18年の小田原合戦で後北条氏が滅びると徳川家康に仕えて牛込城は廃城となりました。
現在の光照寺は正保2年(1645)に神田から移転しました。
稲付城@東京都北区 [お城踏査]
稲付城は東京都北区赤羽西にある中世城郭です。
小高い丘にあるのが稲付城跡です。
赤羽駅からすぐに近くです。
東京23区内にある数少ない中世城郭です。
石碑です。
昭和44年に建てられました。
昭和36年に東京都の史跡に指定されました。
現在は城跡には静勝寺の境内になっています。
山門です。
説明です。
説明です。
太田道灌が築城したと言われます。
江戸城と岩槻城の中継する城として築かれました。
道灌の死後は孫の太田資高が入り、後に後北条氏に仕えました。
資高の子の康資は同じく後北条氏に仕えて岩淵郷を領しました。
明暦元年(1655)に道灌の子孫の太田資宗が静勝寺を建立して、道灌とその父の資清の法号に因んで白得山静勝寺と改めました。
道灌堂です。
太田道灌の木造が安置されています。
本堂です。
堀跡と伝えられる道です。
昭和62年の発掘調査では静勝寺の南方で堀跡が見つかりました。
幅12m、深さ6mの大きな堀でした。
もう一つの説明です。
小高い丘にあるのが稲付城跡です。
赤羽駅からすぐに近くです。
東京23区内にある数少ない中世城郭です。
石碑です。
昭和44年に建てられました。
昭和36年に東京都の史跡に指定されました。
現在は城跡には静勝寺の境内になっています。
山門です。
説明です。
説明です。
太田道灌が築城したと言われます。
江戸城と岩槻城の中継する城として築かれました。
道灌の死後は孫の太田資高が入り、後に後北条氏に仕えました。
資高の子の康資は同じく後北条氏に仕えて岩淵郷を領しました。
明暦元年(1655)に道灌の子孫の太田資宗が静勝寺を建立して、道灌とその父の資清の法号に因んで白得山静勝寺と改めました。
道灌堂です。
太田道灌の木造が安置されています。
本堂です。
堀跡と伝えられる道です。
昭和62年の発掘調査では静勝寺の南方で堀跡が見つかりました。
幅12m、深さ6mの大きな堀でした。
もう一つの説明です。
古渡城@名古屋市中区 [お城踏査]
名古屋城特別展 [お城踏査]
名古屋城天守閣2階では、特別展「名古屋城 -巨大天守の歴史と未来」を開催しています。
会期は2018年1月1日(月)~2月25日(日)です。
名古屋城天守閣は木造で再建し直す計画があります。
石垣部会と天守部会といろいろと意見が異なり揉めているですが、どうなるのでしょうか。
今回の展示は天守閣の木造再建のPRのようです。
名古屋城は戦災で焼失しましたが、幸いにも実測図や古写真が豊富に残り、正確に復元できる唯一の城です。
しかし、現在は消防法や建築基準法の制約があり、当時のままに建てることはできません。
名古屋城の絵図です。
計画図のため、今の縄張りとは異なります。
御深井丸から天守に直接入れるようになっています。
名古屋城は何度か設計変更されていますが、何枚かの絵図が残っているためその経緯がわかります。
今回の展示では絵図や古写真、実測図が展示されています。
今回の展示では図録や展示目録は作成されていませんでした。
会期は2018年1月1日(月)~2月25日(日)です。
名古屋城天守閣は木造で再建し直す計画があります。
石垣部会と天守部会といろいろと意見が異なり揉めているですが、どうなるのでしょうか。
今回の展示は天守閣の木造再建のPRのようです。
名古屋城は戦災で焼失しましたが、幸いにも実測図や古写真が豊富に残り、正確に復元できる唯一の城です。
しかし、現在は消防法や建築基準法の制約があり、当時のままに建てることはできません。
名古屋城の絵図です。
計画図のため、今の縄張りとは異なります。
御深井丸から天守に直接入れるようになっています。
名古屋城は何度か設計変更されていますが、何枚かの絵図が残っているためその経緯がわかります。
今回の展示では絵図や古写真、実測図が展示されています。
今回の展示では図録や展示目録は作成されていませんでした。
駿府城 その7 [お城踏査]
駿府城の続きです。
駿府城の本丸では天守台の発掘調査が行われています。
天守台の発掘です。
隅石です。
算木積みになっています。
石は大きいです。
駿府城の本丸は明治時代に鎮台となり軍隊が入り、本丸の石垣を崩し堀を埋めました。
天守台も幕末まで残っていましたが、壊されました。
天守は江戸の初期に焼失してしまい、幕末には残っていませんでした。
駿府城は天守を再建しようという計画があります。
今回はその予備調査としての発掘です。
発掘現場は常に公開されていていつでも見学できます。
矢穴のある石です。
刻印のある石です。
発掘で出た石が展示されています。
本丸の石垣です。
以前の発掘調査で見つかり、一部保存されているものです。
(終わり)
駿府城の本丸では天守台の発掘調査が行われています。
天守台の発掘です。
隅石です。
算木積みになっています。
石は大きいです。
駿府城の本丸は明治時代に鎮台となり軍隊が入り、本丸の石垣を崩し堀を埋めました。
天守台も幕末まで残っていましたが、壊されました。
天守は江戸の初期に焼失してしまい、幕末には残っていませんでした。
駿府城は天守を再建しようという計画があります。
今回はその予備調査としての発掘です。
発掘現場は常に公開されていていつでも見学できます。
矢穴のある石です。
刻印のある石です。
発掘で出た石が展示されています。
本丸の石垣です。
以前の発掘調査で見つかり、一部保存されているものです。
(終わり)
駿府城 その6 [お城踏査]
駿府城 その5 [お城踏査]
駿府城 その4 [お城踏査]
駿府城 その3 [お城踏査]
駿府城の続きです。
東御門の内部です。
石落しの部分です。
人型が防御している様子を示しています。
渡り櫓の内部です。
廊下と細かく区切られた部屋になっています。
内部は資料が展示されています。
駿府城の天守の模型です。
天守は江戸の初期に燃えてしまったので、史料がなくどんな形だったのかわかりません。
駿府城の模型です。
天守台の部分です。
江戸時代には天守はなく、天守台の石垣のみがありました。
巽櫓の内部です。
一階です。
内部はいくつかの部屋に分かれています。
部屋は畳敷です。
二階です。
二階から見上げた三階です。
巽櫓は二重三階です。
二階までは入れますが、三階は入れません。
渡り櫓から見た櫓門です。
このアングルは櫓の中からしか撮れません。
(続く)
東御門の内部です。
石落しの部分です。
人型が防御している様子を示しています。
渡り櫓の内部です。
廊下と細かく区切られた部屋になっています。
内部は資料が展示されています。
駿府城の天守の模型です。
天守は江戸の初期に燃えてしまったので、史料がなくどんな形だったのかわかりません。
駿府城の模型です。
天守台の部分です。
江戸時代には天守はなく、天守台の石垣のみがありました。
巽櫓の内部です。
一階です。
内部はいくつかの部屋に分かれています。
部屋は畳敷です。
二階です。
二階から見上げた三階です。
巽櫓は二重三階です。
二階までは入れますが、三階は入れません。
渡り櫓から見た櫓門です。
このアングルは櫓の中からしか撮れません。
(続く)