前の10件 | -
沼田城 その4 [お城踏査]
沼田城の続きです。
本丸跡の石碑です。
公園となり城跡らしさはありません。
本丸御門跡です。
こちらも堀が埋められて跡形もありません。
天守跡です。
石碑のみです。
天守台です。
盛り土のみで遺構はありません。
天守の再建のために天守台を発掘調査しましたが、石垣は発見できなかったそうです。
石垣の下部まで徹底的に破壊されたようです。
平成27年に本丸の堀を発掘すると150センチほどの石垣と瓦が大量に見つかりました。
石垣は上部をかなり破壊されたようです。
ブログの容量を超えてしまいました。
続きは山城踏査日記Ⅲで。
(続く)
本丸跡の石碑です。
公園となり城跡らしさはありません。
本丸御門跡です。
こちらも堀が埋められて跡形もありません。
天守跡です。
石碑のみです。
天守台です。
盛り土のみで遺構はありません。
天守の再建のために天守台を発掘調査しましたが、石垣は発見できなかったそうです。
石垣の下部まで徹底的に破壊されたようです。
平成27年に本丸の堀を発掘すると150センチほどの石垣と瓦が大量に見つかりました。
石垣は上部をかなり破壊されたようです。
ブログの容量を超えてしまいました。
続きは山城踏査日記Ⅲで。
(続く)
沼田城 その3 [お城踏査]
沼田城 その2 [お城踏査]
沼田城@群馬県沼田市 [お城踏査]
沼田城は群馬県沼田市にあった近世城郭です。
沼田城も一昨年放送の真田丸にて有名になりました。
沼田城は、室町時代の後半の天文初期頃、沼田顕泰が築城しました。
永禄3年(1560)に上杉謙信に攻略されますが、謙信の死後は、北条氏政が支配します。
天正8年に真田昌幸が入ります。
天正10年、武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣の滝川一益の支配下となり、甥の滝川儀太夫益氏が沼田城に入入りますが、すぐに起きた本能寺の変により滝川一益は伊勢へ戻ります。
すると再び真田昌幸が入ります。
真田昌幸は嫡子・信之を沼田城に入れました。
天正17年、豊臣秀吉は、沼田城を北条氏に渡すことを真田昌幸に求めます。
しかし、北条氏は沼田城だけではなく、名胡桃城を欲しがり、攻め落としたために秀吉の怒りを買い、小田原の役につながりました。
北条氏滅亡後は、沼田城は再び真田信之の城となります。
関ヶ原合戦では沼田城の真田信之は徳川家康に味方します。
上田城の真田昌幸と信繁は西軍に属したために没収されて、信之は、上田城と沼田城を領有しました。
このころ、信之が沼田城に五重の天守を築きました。
真田氏が松代に移ると沼田城は分家の真田氏が領有しますが、藩政の乱れにより取り潰されて、沼田城も廃城となります。
江戸の中期に本多氏が2万石で再び沼田城を再興しますが、天守は築かれず、本格的な城は築かれませんでした。
沼田城の入り口です。
門は冠木門で模擬門です。
三の丸跡です。
侍屋敷がありました。
三の丸の土塁です。
部分的に残っています。
三の丸の堀跡です。
道路になっています。
(続く)
沼田城も一昨年放送の真田丸にて有名になりました。
沼田城は、室町時代の後半の天文初期頃、沼田顕泰が築城しました。
永禄3年(1560)に上杉謙信に攻略されますが、謙信の死後は、北条氏政が支配します。
天正8年に真田昌幸が入ります。
天正10年、武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣の滝川一益の支配下となり、甥の滝川儀太夫益氏が沼田城に入入りますが、すぐに起きた本能寺の変により滝川一益は伊勢へ戻ります。
すると再び真田昌幸が入ります。
真田昌幸は嫡子・信之を沼田城に入れました。
天正17年、豊臣秀吉は、沼田城を北条氏に渡すことを真田昌幸に求めます。
しかし、北条氏は沼田城だけではなく、名胡桃城を欲しがり、攻め落としたために秀吉の怒りを買い、小田原の役につながりました。
北条氏滅亡後は、沼田城は再び真田信之の城となります。
関ヶ原合戦では沼田城の真田信之は徳川家康に味方します。
上田城の真田昌幸と信繁は西軍に属したために没収されて、信之は、上田城と沼田城を領有しました。
このころ、信之が沼田城に五重の天守を築きました。
真田氏が松代に移ると沼田城は分家の真田氏が領有しますが、藩政の乱れにより取り潰されて、沼田城も廃城となります。
江戸の中期に本多氏が2万石で再び沼田城を再興しますが、天守は築かれず、本格的な城は築かれませんでした。
沼田城の入り口です。
門は冠木門で模擬門です。
三の丸跡です。
侍屋敷がありました。
三の丸の土塁です。
部分的に残っています。
三の丸の堀跡です。
道路になっています。
(続く)
織豊期城郭研究会2018特別研究集会in佐和山城「徹底追及!豊臣の城からみた佐和山城」 [お城情報]
お城のイベントの案内です。
織豊期城郭研究会2018特別研究集会in佐和山城「徹底追及!豊臣の城からみた佐和山城」
日 時 2018年3月3日(土)~4日(日) 13時~16時30分
場 所 鳥居本地区公民館(滋賀県彦根市鳥居本2)
定 員 100名
参加費
内 容
登壇予定
中井均
太田浩司
下高大輔
市川創
十文字健
小谷徳彦
古川匠
乗岡実
奥井智子
田附清子
問合せ
佐和山城研究会
織豊期城郭研究会2018特別研究集会in佐和山城「徹底追及!豊臣の城からみた佐和山城」
日 時 2018年3月3日(土)~4日(日) 13時~16時30分
場 所 鳥居本地区公民館(滋賀県彦根市鳥居本2)
定 員 100名
参加費
内 容
登壇予定
中井均
太田浩司
下高大輔
市川創
十文字健
小谷徳彦
古川匠
乗岡実
奥井智子
田附清子
問合せ
佐和山城研究会
お台場シンポジウム2018「開国後の大阪湾とお台場」 [お城情報]
お城ではありませんが、お台場のシンポジウムです。
お台場の広義の軍事施設と言う範疇ではお城に含まれるのかな。
お台場シンポジウム2018「開国後の大阪湾とお台場」
日 時 2018年3月4日(日) 13時~16時30分
場 所 堺市博物館(大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町2)
定 員 100名
参加費 1000円(申込不要)
内 容
講演1「開港後の大阪湾と台場」後藤敦史氏(京都橘大学准教授)
講演2「堺事件と堺台場」白神典之氏(堺市博物館)
座談会「開港後の大阪湾と堺台場」司会:小林和美氏(堺市文化財課)
問合せ
大阪湾お台場シンポジウム実行委員会・堺台場研究会(山本)
℡090-3840-9217
お台場の広義の軍事施設と言う範疇ではお城に含まれるのかな。
お台場シンポジウム2018「開国後の大阪湾とお台場」
日 時 2018年3月4日(日) 13時~16時30分
場 所 堺市博物館(大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町2)
定 員 100名
参加費 1000円(申込不要)
内 容
講演1「開港後の大阪湾と台場」後藤敦史氏(京都橘大学准教授)
講演2「堺事件と堺台場」白神典之氏(堺市博物館)
座談会「開港後の大阪湾と堺台場」司会:小林和美氏(堺市文化財課)
問合せ
大阪湾お台場シンポジウム実行委員会・堺台場研究会(山本)
℡090-3840-9217
名胡桃城 その7 [お城踏査]
名胡桃城の続きです。
本郭の先端がささ郭です。
深い堀を隔てています。
本郭から見たささ郭です。
今を安全のために堀に通路が作られています。
城跡としてはいただけませんが、このように観光地化した城跡には仕方ないのでしょうね。
ささ郭の説明です。
土塁を両側に持つ曲輪です。
トレンチ調査が行われ、門跡や石積などが見つかりました。
現在は埋め戻されています。
ささ郭の先には袖郭と物見がありました。
発掘調査の写真です。
石積などが見つかりました。
ささ郭です。
ささ郭からの眺めです。
高い位置にあり、要害地形であることが、よくわかります。
名胡桃城はこのように史上有名な城であり、遺構もよく残り、整備もされています。
交通の便は少し悪いですが、見る価値は十分ありまする
(終わり)
本郭の先端がささ郭です。
深い堀を隔てています。
本郭から見たささ郭です。
今を安全のために堀に通路が作られています。
城跡としてはいただけませんが、このように観光地化した城跡には仕方ないのでしょうね。
ささ郭の説明です。
土塁を両側に持つ曲輪です。
トレンチ調査が行われ、門跡や石積などが見つかりました。
現在は埋め戻されています。
ささ郭の先には袖郭と物見がありました。
発掘調査の写真です。
石積などが見つかりました。
ささ郭です。
ささ郭からの眺めです。
高い位置にあり、要害地形であることが、よくわかります。
名胡桃城はこのように史上有名な城であり、遺構もよく残り、整備もされています。
交通の便は少し悪いですが、見る価値は十分ありまする
(終わり)
名胡桃城 その6 [お城踏査]
名胡桃城 その5 [お城踏査]
名胡桃城の続きです。
二郭です。
ほぼ全域が発掘されています。
郭内には多くの建物跡が確認されています。
郭の南北に虎口があります。
共に食い違いになっていて、三郭や本丸より虎口からのみみると上位の郭に見えます。
二郭が実質的な本丸だったようです。
二郭の復元イラストです。
建物の中には掘立柱建物ではないしっかりした建物もあり、物見櫓もありました。
二郭の北虎口です。
門は柱のみ表現されています。
右は櫓台です。
二郭の北虎口の図面です。
橋から入り、土塁にぶつかり、一度左に折れて虎口に入るようになっています。
虎口の隣には櫓台が構えられていて、厳重な構えでした。
発掘調査の写真です。
石垣や石積みの排水路も見つかっています。
本丸から橋を通して見た二郭の北虎口です。
正面の土塁に当たると左に折れます。
北虎口です。
虎口の前には桝形空間があります。
左手に櫓台があり、厳重な構えです。
(続く)
二郭です。
ほぼ全域が発掘されています。
郭内には多くの建物跡が確認されています。
郭の南北に虎口があります。
共に食い違いになっていて、三郭や本丸より虎口からのみみると上位の郭に見えます。
二郭が実質的な本丸だったようです。
二郭の復元イラストです。
建物の中には掘立柱建物ではないしっかりした建物もあり、物見櫓もありました。
二郭の北虎口です。
門は柱のみ表現されています。
右は櫓台です。
二郭の北虎口の図面です。
橋から入り、土塁にぶつかり、一度左に折れて虎口に入るようになっています。
虎口の隣には櫓台が構えられていて、厳重な構えでした。
発掘調査の写真です。
石垣や石積みの排水路も見つかっています。
本丸から橋を通して見た二郭の北虎口です。
正面の土塁に当たると左に折れます。
北虎口です。
虎口の前には桝形空間があります。
左手に櫓台があり、厳重な構えです。
(続く)
名胡桃城 その4 [お城踏査]
前の10件 | -