渋谷城@東京都渋谷区 [お城踏査]
渋谷城は東京都渋谷区渋谷にあった中世城郭です。
渋谷駅から徒歩10分程度で行けます。
現在は金王八幡宮の境内になっています。
周囲より一段高くなっていることがわかるでしようか。
城の遺構は明確なものはありません。
特に説明板もありません。
唯一あるのが渋谷城砦の石です。
平安末期から渋谷氏の居館がありました。
東に鎌倉街道(今の八幡通り)、西に渋谷川が流れて、北東に黒鍬谷を有して、湧水があるという好条件の土地でした。
大永4年(1524)、北条氏綱と上杉朝興の高輪原の戦いの時に、北条氏の別動隊に襲われて焼き払われたといわれます。
渋谷駅から徒歩10分程度で行けます。
現在は金王八幡宮の境内になっています。
周囲より一段高くなっていることがわかるでしようか。
城の遺構は明確なものはありません。
特に説明板もありません。
唯一あるのが渋谷城砦の石です。
平安末期から渋谷氏の居館がありました。
東に鎌倉街道(今の八幡通り)、西に渋谷川が流れて、北東に黒鍬谷を有して、湧水があるという好条件の土地でした。
大永4年(1524)、北条氏綱と上杉朝興の高輪原の戦いの時に、北条氏の別動隊に襲われて焼き払われたといわれます。
江戸城牛込御門 [お城踏査]
江戸城牛込御門です。
牛込見附ともいいます。
見附とは城門の見張り番所のことです。
江戸城の門は主に枡形門でした。
今も赤坂見附などの地名も残っています。
牛込御門の石垣です。
江戸城には俗に三十六見附といい、36の城門があったとされています。
牛込見附はその一つです。
現在の飯田橋にありました。
道の両側に石垣が残っています。
牛込門の説明です。
隅石はきれいな算木積みになっています。
石垣の石は大きいです。
牛込御門は桝形門でしたが、桝形の遺構はなく、石垣の一部が残るのみです。
かなり大きな石垣が残っていますが、道ゆくひとはほとんど気が付いていないようです。
蔦が生えていて石垣も見にくくなっています。
牛込御門は阿波徳島藩主の蜂須賀氏によって作られました。
石には蜂須賀氏の名が刻印されています。
牛込見附ともいいます。
見附とは城門の見張り番所のことです。
江戸城の門は主に枡形門でした。
今も赤坂見附などの地名も残っています。
牛込御門の石垣です。
江戸城には俗に三十六見附といい、36の城門があったとされています。
牛込見附はその一つです。
現在の飯田橋にありました。
道の両側に石垣が残っています。
牛込門の説明です。
隅石はきれいな算木積みになっています。
石垣の石は大きいです。
牛込御門は桝形門でしたが、桝形の遺構はなく、石垣の一部が残るのみです。
かなり大きな石垣が残っていますが、道ゆくひとはほとんど気が付いていないようです。
蔦が生えていて石垣も見にくくなっています。
牛込御門は阿波徳島藩主の蜂須賀氏によって作られました。
石には蜂須賀氏の名が刻印されています。
光照寺 [寺院]
牛込城@東京都新宿区 [お城踏査]
西武鉄道 30000系 [鉄道]
西武鉄道の車両です。
30000系です。
平成20年にデビューしました。
タマゴ型の先頭の形から、愛称としてSmile Train (スマイルトレイン)と言われています。
西武の新しい顔となりつつあります。
行先表示器はフルカラーLEDです。
車内の様子です。
通勤仕様のロングシートです。
よく見ると吊り革もたまご形です。
シートです。
シートに区切りには握り棒が設置されています。
最近はこういう電車多いですね。
車内の表示です。
フルカラーLEDで見やすくなりました。
横のデザインです。
30000系(左)と2000系(右)です。
西武のイメージカラーは2000系などのようにイエローのイメージが強いですが、次第に変わりつつありますね。
30000系です。
平成20年にデビューしました。
タマゴ型の先頭の形から、愛称としてSmile Train (スマイルトレイン)と言われています。
西武の新しい顔となりつつあります。
行先表示器はフルカラーLEDです。
車内の様子です。
通勤仕様のロングシートです。
よく見ると吊り革もたまご形です。
シートです。
シートに区切りには握り棒が設置されています。
最近はこういう電車多いですね。
車内の表示です。
フルカラーLEDで見やすくなりました。
横のデザインです。
30000系(左)と2000系(右)です。
西武のイメージカラーは2000系などのようにイエローのイメージが強いですが、次第に変わりつつありますね。
観泉寺の今川氏墓所 [寺院]
観泉寺は、東京都杉並区今川町にあります。
山門です。
本瓦葺き入母屋屋根の八脚門です。
大きな門です。
門の前には東京都指定旧跡今川氏累代墓の碑が建ちます。
住所は杉並区今川2丁目です。
今川の地名は今川氏に由来します。
今川氏と言えば桶狭間合戦で戦死した今川義元の子孫です。
本堂です。
観泉寺はとても大きな寺院で境内も広いです。
今川氏累代の墓です。
立派な宝篋印塔です。
今川義元の子孫は江戸時代には高家として幕府に仕えました。
知行所として上井草、下井草、鷺宮、中村などを給されて幕府の儀式典礼を司り、幕府の名代として京への使者や伊勢などの代参を勤めました。
義元の孫の直房は観泉寺を今川氏の菩提寺として始祖国氏や義元など今川一族の供養を行いました。
法号が彫られていますがなかなか読み取りにくいです。
□春院殿□□でしょうか。
寛永十四年
庭園です。
きれいに整備されています。
賽銭箱には今川氏の家紋である五七桐紋が刻まれています。
杉並区に今川義元ゆかりの地があるとは知りませんでした。
山門です。
本瓦葺き入母屋屋根の八脚門です。
大きな門です。
門の前には東京都指定旧跡今川氏累代墓の碑が建ちます。
住所は杉並区今川2丁目です。
今川の地名は今川氏に由来します。
今川氏と言えば桶狭間合戦で戦死した今川義元の子孫です。
本堂です。
観泉寺はとても大きな寺院で境内も広いです。
今川氏累代の墓です。
立派な宝篋印塔です。
今川義元の子孫は江戸時代には高家として幕府に仕えました。
知行所として上井草、下井草、鷺宮、中村などを給されて幕府の儀式典礼を司り、幕府の名代として京への使者や伊勢などの代参を勤めました。
義元の孫の直房は観泉寺を今川氏の菩提寺として始祖国氏や義元など今川一族の供養を行いました。
法号が彫られていますがなかなか読み取りにくいです。
□春院殿□□でしょうか。
寛永十四年
庭園です。
きれいに整備されています。
賽銭箱には今川氏の家紋である五七桐紋が刻まれています。
杉並区に今川義元ゆかりの地があるとは知りませんでした。
稲付城@東京都北区 [お城踏査]
稲付城は東京都北区赤羽西にある中世城郭です。
小高い丘にあるのが稲付城跡です。
赤羽駅からすぐに近くです。
東京23区内にある数少ない中世城郭です。
石碑です。
昭和44年に建てられました。
昭和36年に東京都の史跡に指定されました。
現在は城跡には静勝寺の境内になっています。
山門です。
説明です。
説明です。
太田道灌が築城したと言われます。
江戸城と岩槻城の中継する城として築かれました。
道灌の死後は孫の太田資高が入り、後に後北条氏に仕えました。
資高の子の康資は同じく後北条氏に仕えて岩淵郷を領しました。
明暦元年(1655)に道灌の子孫の太田資宗が静勝寺を建立して、道灌とその父の資清の法号に因んで白得山静勝寺と改めました。
道灌堂です。
太田道灌の木造が安置されています。
本堂です。
堀跡と伝えられる道です。
昭和62年の発掘調査では静勝寺の南方で堀跡が見つかりました。
幅12m、深さ6mの大きな堀でした。
もう一つの説明です。
小高い丘にあるのが稲付城跡です。
赤羽駅からすぐに近くです。
東京23区内にある数少ない中世城郭です。
石碑です。
昭和44年に建てられました。
昭和36年に東京都の史跡に指定されました。
現在は城跡には静勝寺の境内になっています。
山門です。
説明です。
説明です。
太田道灌が築城したと言われます。
江戸城と岩槻城の中継する城として築かれました。
道灌の死後は孫の太田資高が入り、後に後北条氏に仕えました。
資高の子の康資は同じく後北条氏に仕えて岩淵郷を領しました。
明暦元年(1655)に道灌の子孫の太田資宗が静勝寺を建立して、道灌とその父の資清の法号に因んで白得山静勝寺と改めました。
道灌堂です。
太田道灌の木造が安置されています。
本堂です。
堀跡と伝えられる道です。
昭和62年の発掘調査では静勝寺の南方で堀跡が見つかりました。
幅12m、深さ6mの大きな堀でした。
もう一つの説明です。