膳所城の移築門 [移築城門]
膳所城は滋賀県大津市にあった近世城郭です。
膳所城の城門は多く近くに移築されています。
草津市野路の新宮神社に移築されている門です。
城の門としては小ぶりです。
水門と伝えられます。
扉は透かし門になっています。
門の屋根瓦の家紋瓦です。
膳所城の城主であった本多氏の家紋、立葵です。
屋根の上には小さいながらシャチが載っています。
膳所城の城門は多く近くに移築されています。
草津市野路の新宮神社に移築されている門です。
城の門としては小ぶりです。
水門と伝えられます。
扉は透かし門になっています。
門の屋根瓦の家紋瓦です。
膳所城の城主であった本多氏の家紋、立葵です。
屋根の上には小さいながらシャチが載っています。
長島城の城門 [移築城門]
犬山城の移築門 [移築城門]
犬山城の移築城門 [移築城門]
佐和山城の門 [移築城門]
赤目城の城門 [移築城門]
竹谷松平家大手門の移築門 [移築城門]
蒲形陣屋の移築城門です。
愛知県蒲郡市の蒲郡市博物館に移築されています。
竹谷松平家の大手門です。
大手門らしい立派な高麗門です。
説明です。
竹谷松平氏は蒲郡市竹谷町の竹谷城にいました。
竹谷松平氏は江戸時代には5000石の交代寄合の旗本として蒲形城に居を構えました。
蒲形陣屋と呼ばれます。
後から見た大手門です。
高麗門なので、控え柱に扉をしまう屋根が付いています。
扉です。
上部は透かし戸になっています。
門扉のほぞに書かれていた墨書から文化15年(1818)に建てられました。
明治初期に宝飯郡御津町の民家に移築されましたが、平成3年に現在地に移築されました。
控え柱の屋根です。
木材は新しそうです。
老朽化により取り換えられたようです。
屋根の軒丸瓦です。
巴紋です。
瓦は古そうです。
愛知県蒲郡市の蒲郡市博物館に移築されています。
竹谷松平家の大手門です。
大手門らしい立派な高麗門です。
説明です。
竹谷松平氏は蒲郡市竹谷町の竹谷城にいました。
竹谷松平氏は江戸時代には5000石の交代寄合の旗本として蒲形城に居を構えました。
蒲形陣屋と呼ばれます。
後から見た大手門です。
高麗門なので、控え柱に扉をしまう屋根が付いています。
扉です。
上部は透かし戸になっています。
門扉のほぞに書かれていた墨書から文化15年(1818)に建てられました。
明治初期に宝飯郡御津町の民家に移築されましたが、平成3年に現在地に移築されました。
控え柱の屋根です。
木材は新しそうです。
老朽化により取り換えられたようです。
屋根の軒丸瓦です。
巴紋です。
瓦は古そうです。
伏見城移築の唐門 [移築城門]
京都市東山区の豊国神社の唐門は伏見城から移築されたと伝えられています。
確かに伏見城からの移築と聞いて納得する豪華さです。
全体に黒く感じますが、漆が塗られていたためです。
国宝です。
伏見城遺構とされています。
元々は南禅寺塔頭金地院にあった門で、明治時代に豊国神社の再建にあたって金地院から移築されました。
この唐門は、以心崇伝が寛永4年に幕府から二条城の唐門を譲り受けたものと伝えられます。
二条城の前は伏見城にあったとも伝えられています。
伏見城の唐門と伝えられるものに、西本願寺の唐門があります。
また、大徳寺の唐門は聚楽第の唐門を移築したと伝えられます。
そもそも伏見城は、豊臣秀吉により文禄元年に指月山に築かれましたが、慶長地震により倒壊して、木幡山に再び築かれました。
その伏見城は関ケ原合戦で焼失して、江戸時代になってから徳川家康により再建されました。
元和5年(1619)に廃城となりました。
各地に伏見城の移築建物として残っているものは、秀吉の伏見城ではなく、徳川氏の伏見城の遺構のことが多いです。
広島県の福山城の伏見櫓もそのひとつです。
豊国神社の唐門は豪華ですが、西本願寺の唐門と比較すると極彩色の塗装がありません。
四脚門です。
屋根は、前後唐破風造、側面入母屋です。
檜皮葺です。
鶴の彫刻です。
当時は極彩色だったでしょうが、色が落ちています。
左甚五郎の作と伝えられています。
鶴の彫刻には目が入れられていません。
あまりに見事な出来栄えだったので、目を入れると飛んで逃げて行ってしまうため入れなかったと言われています。
蟇股の彫刻です。
五七の桐紋が入っています。
門扉の彫刻です。
鯉の滝登りです。
いわゆる登竜門を表しています。
見事な門です。
確かに伏見城からの移築と聞いて納得する豪華さです。
全体に黒く感じますが、漆が塗られていたためです。
国宝です。
伏見城遺構とされています。
元々は南禅寺塔頭金地院にあった門で、明治時代に豊国神社の再建にあたって金地院から移築されました。
この唐門は、以心崇伝が寛永4年に幕府から二条城の唐門を譲り受けたものと伝えられます。
二条城の前は伏見城にあったとも伝えられています。
伏見城の唐門と伝えられるものに、西本願寺の唐門があります。
また、大徳寺の唐門は聚楽第の唐門を移築したと伝えられます。
そもそも伏見城は、豊臣秀吉により文禄元年に指月山に築かれましたが、慶長地震により倒壊して、木幡山に再び築かれました。
その伏見城は関ケ原合戦で焼失して、江戸時代になってから徳川家康により再建されました。
元和5年(1619)に廃城となりました。
各地に伏見城の移築建物として残っているものは、秀吉の伏見城ではなく、徳川氏の伏見城の遺構のことが多いです。
広島県の福山城の伏見櫓もそのひとつです。
豊国神社の唐門は豪華ですが、西本願寺の唐門と比較すると極彩色の塗装がありません。
四脚門です。
屋根は、前後唐破風造、側面入母屋です。
檜皮葺です。
鶴の彫刻です。
当時は極彩色だったでしょうが、色が落ちています。
左甚五郎の作と伝えられています。
鶴の彫刻には目が入れられていません。
あまりに見事な出来栄えだったので、目を入れると飛んで逃げて行ってしまうため入れなかったと言われています。
蟇股の彫刻です。
五七の桐紋が入っています。
門扉の彫刻です。
鯉の滝登りです。
いわゆる登竜門を表しています。
見事な門です。