明石城 その3 [お城踏査]
明石城の続きです。
本丸の石垣です。
きれいな打ち込みハギです。
本丸の虎口です。
枡形虎口になっています。
石垣のアップです。
石材には矢穴(石を割るための穴)が見られます。
天守台です。
明石城は天守台は作られましたが、天守は実際には建てられませんでした。
そのかわり本丸には三重櫓が4基も建てられました。
残っているのは2基だけです。
天守台への登る石段です。
石段をよく見ると墓石が一部に使われています。
よく石垣に墓石や石仏が使われることがあります。
その理由は石材不足とか、信仰不足とかいろいろと説があります。
今と昔は考え方も違い、実際にはよくわかりません。
ただ墓石は方形に加工されているので、使いやすかったことはあるでしょうね。
天守台の上部です。
かなり広いです。
五重の天守が建つほどの広さでした。
巽櫓です。
桁行5間、梁間4間、高さ7間1寸の規模です。
こちらも三重櫓です。
巽櫓は船上城の天守を移築したと伝えられます。
船上城は明石市船上町にありました。
巽櫓と坤櫓を結ぶ土塀です。
明石城は平成7年の阪神大震災で被災しました。
その時は曳家で直しました。
平成11年に土塀を復元しました。
土塀の狭間です。
矢狭間です。
丸い狭間です。
鉄砲狭間です。
巽櫓です。
端正な三重櫓です。
巽櫓も隔月で土日に公開していることもあります。
(続く)
本丸の石垣です。
きれいな打ち込みハギです。
本丸の虎口です。
枡形虎口になっています。
石垣のアップです。
石材には矢穴(石を割るための穴)が見られます。
天守台です。
明石城は天守台は作られましたが、天守は実際には建てられませんでした。
そのかわり本丸には三重櫓が4基も建てられました。
残っているのは2基だけです。
天守台への登る石段です。
石段をよく見ると墓石が一部に使われています。
よく石垣に墓石や石仏が使われることがあります。
その理由は石材不足とか、信仰不足とかいろいろと説があります。
今と昔は考え方も違い、実際にはよくわかりません。
ただ墓石は方形に加工されているので、使いやすかったことはあるでしょうね。
天守台の上部です。
かなり広いです。
五重の天守が建つほどの広さでした。
巽櫓です。
桁行5間、梁間4間、高さ7間1寸の規模です。
こちらも三重櫓です。
巽櫓は船上城の天守を移築したと伝えられます。
船上城は明石市船上町にありました。
巽櫓と坤櫓を結ぶ土塀です。
明石城は平成7年の阪神大震災で被災しました。
その時は曳家で直しました。
平成11年に土塀を復元しました。
土塀の狭間です。
矢狭間です。
丸い狭間です。
鉄砲狭間です。
巽櫓です。
端正な三重櫓です。
巽櫓も隔月で土日に公開していることもあります。
(続く)
明石城 その2 [お城踏査]
明石城の続きです。
明石城は江戸時代初めの元和3年(1617)に小笠原忠真により築かれました。
小笠原氏は松本城より10万石で明石に入りました。
小笠原氏の後は戸田松平氏、大久保氏、藤井松平氏、本多氏、越前松平氏など目まぐるしく城主が変わりました。
坤櫓です。
本丸に位置する三重櫓です。
下から見た坤櫓です。
坤櫓は桁行6間、梁間5間、高さ7間2尺9寸です。
入母屋根造で最上階の妻部は南北に向いています。
伏見城からの移築とも言われていますが、昭和57年に修理では、他の城からの移築であることが確認されました。
重要文化財です。
普段は非公開ですが、巽櫓と月替わりで土日限定で公開されることもありますが、この日は平日のため非公開でした。
(続く)
明石城は江戸時代初めの元和3年(1617)に小笠原忠真により築かれました。
小笠原氏は松本城より10万石で明石に入りました。
小笠原氏の後は戸田松平氏、大久保氏、藤井松平氏、本多氏、越前松平氏など目まぐるしく城主が変わりました。
坤櫓です。
本丸に位置する三重櫓です。
下から見た坤櫓です。
坤櫓は桁行6間、梁間5間、高さ7間2尺9寸です。
入母屋根造で最上階の妻部は南北に向いています。
伏見城からの移築とも言われていますが、昭和57年に修理では、他の城からの移築であることが確認されました。
重要文化財です。
普段は非公開ですが、巽櫓と月替わりで土日限定で公開されることもありますが、この日は平日のため非公開でした。
(続く)