岐阜城織田信長館発掘調査現地説明会 その3 [発掘調査現地説明会]
岐阜城織田信長館発掘調査現地説明会の続きです。
今回の発掘は3ケ所で説明会がありました。
金箔瓦の建物の後で見つかった第7の庭園です。
山から流れる水を受けていたようです。
この池から伸びる溝も見つかっていて、御殿の各所に配水していた可能性があります。
石垣のとなりは大きな岩盤が露出しています。
出土品です。
天目茶碗と水指(建水か)です。
染付碗です。
出土品は少なめです。
御殿跡なので生活痕があるはずですが、廃城後に撤去されたのでしょうか。
蹲踞(つくばい)です。
花崗岩製の手水鉢です。
池の中から出土しました。
軒丸瓦です。
御殿の建物は瓦葺きではなく、杮葺きなどが多かったと思われますが、一部は瓦葺きだったようです。
以前は金箔瓦も出土しています。
御殿の上を走るロープウェイです。
ロープウェイの駅では戦国バサラのパネル展がやっていました。
明智光秀と竹中半兵衛です。
織田信長のペットボトルです。
いざ岐阜入城と書かれています。
織田信長岐阜入城450周年のコラボ商品です。
岐阜城山頂部の模型です。
岐阜城の顔出し看板です。
人物のものは多いけど、天守のものは珍しいです。
岐阜公園の門と信長像、後ろは岐阜城(金華山)です。
天守がかすかに見えます。
(終わり)
今回の発掘は3ケ所で説明会がありました。
金箔瓦の建物の後で見つかった第7の庭園です。
山から流れる水を受けていたようです。
この池から伸びる溝も見つかっていて、御殿の各所に配水していた可能性があります。
石垣のとなりは大きな岩盤が露出しています。
出土品です。
天目茶碗と水指(建水か)です。
染付碗です。
出土品は少なめです。
御殿跡なので生活痕があるはずですが、廃城後に撤去されたのでしょうか。
蹲踞(つくばい)です。
花崗岩製の手水鉢です。
池の中から出土しました。
軒丸瓦です。
御殿の建物は瓦葺きではなく、杮葺きなどが多かったと思われますが、一部は瓦葺きだったようです。
以前は金箔瓦も出土しています。
御殿の上を走るロープウェイです。
ロープウェイの駅では戦国バサラのパネル展がやっていました。
明智光秀と竹中半兵衛です。
織田信長のペットボトルです。
いざ岐阜入城と書かれています。
織田信長岐阜入城450周年のコラボ商品です。
岐阜城山頂部の模型です。
岐阜城の顔出し看板です。
人物のものは多いけど、天守のものは珍しいです。
岐阜公園の門と信長像、後ろは岐阜城(金華山)です。
天守がかすかに見えます。
(終わり)
岐阜城織田信長館発掘調査現地説明会 その2 [発掘調査現地説明会]
岐阜城織田信長館発掘調査現地説明会の続きです。
居館の主要部を下から見上げたところ。
裏込め石が散乱しています。
信長居館である千畳敷の模型です。
中央部が主要部です。
居館の主要部への入り口です。
礎石が確認されています。
居館部から入り口を見下ろしたところです。
主な石材は撤去されていて、裏込め石が残るのみなので、とても分かりにくいですが、穴蔵状の通路を登ったようです。
巨石列というのが大きな石を使った石垣を想定しています。
現地説明会の配布された資料から通路部分の模式図です。
通路を登ると巨石列があったようです。
突き当たると左に折れて登ります。
この部分の御殿を復元したCGです。
二階の御殿が石垣の上に建てられていました。
中央の唐破風の下にあるのが、御殿への入り口です。
熊本城の本丸御殿に似ています。
闇り通路のようなイメージです。
御殿の一部は懸け造りになっています。
狭隘な地形を有効利用するための工夫でしょう。
居館のCGの全体図です。
発掘調査を行っても、御殿の明確な礎石はほとんど出土せず、CGはフロイスの記述などを参考にしたあくまでも想像図です。
スロープの部分です。
スロープの途中で平たん部があり、踊り場だったのでしょうか。
兎に角破壊が激しく、不明確です。
岐阜城は関ヶ原合戦の前哨戦で落城して、御殿も焼け落ちたとされています。
江戸時代には御留め山として入山が禁止されていたので、廃城直後か明治以降に破壊されたようです。
地表の石材はかなり撤去されて、礎石もないほど表土も削られていたようです。
明治期にある程度石垣が残っていたならば、もう少し保存が図られていた気もしますが・・。
裏込め石がほとんどなので、よく説明を聴かないとなかなか理解が難しい現場でした。
スロープ部分です。
階段だったのか、坂だったのかは不明です。
(続く)
居館の主要部を下から見上げたところ。
裏込め石が散乱しています。
信長居館である千畳敷の模型です。
中央部が主要部です。
居館の主要部への入り口です。
礎石が確認されています。
居館部から入り口を見下ろしたところです。
主な石材は撤去されていて、裏込め石が残るのみなので、とても分かりにくいですが、穴蔵状の通路を登ったようです。
巨石列というのが大きな石を使った石垣を想定しています。
現地説明会の配布された資料から通路部分の模式図です。
通路を登ると巨石列があったようです。
突き当たると左に折れて登ります。
この部分の御殿を復元したCGです。
二階の御殿が石垣の上に建てられていました。
中央の唐破風の下にあるのが、御殿への入り口です。
熊本城の本丸御殿に似ています。
闇り通路のようなイメージです。
御殿の一部は懸け造りになっています。
狭隘な地形を有効利用するための工夫でしょう。
居館のCGの全体図です。
発掘調査を行っても、御殿の明確な礎石はほとんど出土せず、CGはフロイスの記述などを参考にしたあくまでも想像図です。
スロープの部分です。
スロープの途中で平たん部があり、踊り場だったのでしょうか。
兎に角破壊が激しく、不明確です。
岐阜城は関ヶ原合戦の前哨戦で落城して、御殿も焼け落ちたとされています。
江戸時代には御留め山として入山が禁止されていたので、廃城直後か明治以降に破壊されたようです。
地表の石材はかなり撤去されて、礎石もないほど表土も削られていたようです。
明治期にある程度石垣が残っていたならば、もう少し保存が図られていた気もしますが・・。
裏込め石がほとんどなので、よく説明を聴かないとなかなか理解が難しい現場でした。
スロープ部分です。
階段だったのか、坂だったのかは不明です。
(続く)