桑名城 その4 [お城踏査]

桑名城の内郭部は徹底して破壊されていますが、外郭はよく遺構をとどめている場所もあります。

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三の丸の堀です。

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同じく三の丸の堀です。

石垣もよく残っています。

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隅櫓があった場所でしょうか。

建物もそれらしい感じです。

この付近は歴史が見える公園になっています。

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三の丸御殿の跡です。

広場になっています。

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広場にかつての堀の位置が示されています。

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桑名城の絵図です。

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もう一種類の絵図です。

絵図を見ると桑名城が立派な城であったことがわかります。

(終)

桑名城 その3 [お城踏査]

桑名城本丸の絵図です。

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本丸は四重の天守の他に三重の隅櫓が3基、二重櫓が1基、他に単層櫓、多聞櫓がありました。

10万石の城とは思えない豪華さです。

幕府がこの地をいかに重視していたかわかります。

二の丸と本丸は廊下橋で結ばれていました。

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石垣の残骸でしょうか。

積み方も不自然です。

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辰巳櫓跡です。

幕末まで残った三重櫓で桑名城の天守に代わるシンボルでした。

戊辰戦争の際にはこの辰巳櫓を焼いて落城のしるしとしました。

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辰巳櫓跡にはなぜか大砲が置かれています。

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天守台です。

二段に石が積まれていますが、後で積まれたものです。

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天守台の登り口です。

今は危険なため入れません。

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横から見た天守台です。

上になにかの記念碑みたいなものが建てられています。

そのために新たに作られたのでしょうか。

石の積み方や矢穴の形でも石垣がおかしいことがわかります。

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天守の絵図です。

せめて石垣だけでも残していてくれたらと思います。

桑名藩が幕末に幕府方として戦ったためにより徹底的に破壊されてしまったのでしょうか。

天守を復元しようという声もあるようですが、まだ少数派です。

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堀と石垣です。

石垣は落とし積みでいかにも後から積みました感が満載で、興ざめです。

(続く)

桑名城 その2 [お城踏査]

桑名城跡は現在九華公園になっています。

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堀と本丸です。

神戸櫓跡です。

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公園の図です。

広い堀があることがわかります。

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こちらは桑名城の絵図です。

四重の天守と三重の櫓など多くの櫓が林立していました。

関ケ原合戦後に徳川四天王の一人本多忠勝が10万石で入り築城しました。

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本多忠勝の銅像です。

本多氏が姫路城に移ると、久松松平氏、奥平松平氏、久松松平氏が入りました。

幕末には、尾張徳川氏の支藩である高須藩から松平定敬が養子に入りました。

いわゆる高須四兄弟です。

高須藩とは尾張徳川家の支藩で本家に後継ぎがいないときに養子を出す家で、御三家のような存在でした。

幕末の高須藩には高須四兄弟がいて、慶継は尾張徳川家、茂徳は一橋家、容保は会津藩、定敬は桑名藩を継ぎました。

実際には男子はあと二人いて、高須藩と浜田藩を継ぎました。

四人は幕末の動乱で活躍したため、高須四兄弟として有名です。

松平容保は京都守護職として薩摩、長州と戦い、桑名藩も幕府方として戦いました。

そのため桑名城は戊辰戦争では、辰巳櫓を焼かれました。

明治以降は四日市港の整備のため、桑名城の石垣は取り壊されて運ばれました。

そのため本丸や二の丸には石垣はほとんどありません。

また二の丸も小さくなりました。

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本丸の神戸櫓跡です。

神戸城(三重県鈴鹿市)の天守を移築したといわれています。

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絵図に見る神戸櫓です。

三重櫓でした。

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説明です。

(続く)


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