永原御殿の移築書院 [移築城門]

滋賀県草津市の芦浦観音寺に永原御殿の書院が移築されています。

重要文化財です。

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書院の外観です。

永原御殿は同じく滋賀県にあり、徳川家康が上洛の時に使用するために建てた御殿です。

元々は足利義昭が建てた御殿を豊臣秀吉が伏見城に移築して、それを徳川家康が永原御殿に移築したと伝えられます。

かなり由緒のある邸物で、かつては国宝だったそうです。

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中の書院です。

普段は非公開です。

年に数回公開されています。

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床の間と違い棚があり、書院造りになっています。

付書院はありません。

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欄間です。

筬欄間です。

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書院の隣の部屋です。

二間続きになっています。

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奥の部屋です。

茶室でしょうか。

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引手金具です。

細工が見事です。

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こちらは釘隠しです。

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戸袋です。

雨戸が付いていました。

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書院の天井です。

竿縁天井です。

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軒の見上げです。

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こちらが入り口です。

もともとは一連の建物だったものを移築したため正式な玄関ではありません。

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屋根は杮葺きです。

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屋根の破風です。

芦浦観音寺跡 [お城踏査]

滋賀県草津市にある芦浦観音寺です。

聖徳太子開基、秦河勝創建の伝承を持つ古刹です。

室町時代には力を持ち、戦国時代には織田信長と関係を持ち、羽柴秀吉からは琵琶湖の水上交通の管理監督を行う船奉行に任命されています。

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入り口です。

石垣と門があり城のようです。

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実際に周囲に堀を巡らせて、城でした。

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測量図です。

方形ではなく、台形でした。

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お堂です。

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お堂の棟瓦には、大根や、小槌、鍵などがあしらわれています。

繁栄を祈願したものだそうですが、珍しいです。

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門の内部です。

こうしてみるとまさしくお城です。

鈎の陣所ゆかりの地 [お城踏査]

滋賀県栗東市にある鈎の陣は足利義尚の陣所です。

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陣所の近くの公園にゆかりの地の碑があります。

陣所より天皇と歌のやりとりがありました。

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土御門天皇より足利義尚への歌

君すめば 人の心の鈎をも
さこそはすぐに 治めなすらめ

長享元年9月12日

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義尚が父義政へ送った歌

坂本の はまちを過てなみ安く

やしなふ寺に 住とこたへよ

長享元年10月4日

鈎の陣所@滋賀県栗東市 [お城踏査]

鈎の陣所は滋賀県栗東市にあった中世城郭です。

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今は永正寺の境内になっています。

鈎は「まがり」と読みます。

室町将軍9代の足利義尚が長享元年(1487)10月から同3年3月まで六角氏征伐のために出陣した陣所です。

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永正寺に残る土塁です。

ところどころに残っています。

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陣所の絵図です。

本丸の周囲に二の丸があり、さらにその外に三の丸がありました。

三重構造になっていました。

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本堂の裏に残る土塁です。

比較的よく残っています。

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栗東市のマンホールです。





岩瀬文庫企画展西尾市史中間報告 その6 [歴史雑話]

西尾市岩瀬文庫企画展の続きです。

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謎の美女は吉良家の奥方?

西尾市吉良町の華蔵寺は吉良上野介義央の菩提寺です。

近年、華蔵寺から見つかった謎の肖像画です。

禅定尼像です。

吉良氏関係の女性と思われますが、誰か不明です。

吉良氏は足利氏に連なる名族でしたが、戦国時代には徳川氏と争い、没落します。

その吉良氏を再興したのが義定です。

肖像画の女性は、その義定の母(俊継尼)か妻梅松院(今川氏真娘)かと言われています。

俊継尼は徳川家康の父広忠の姉妹です。

梅松院は、今川氏真の娘です。

今川氏真は今川義元の息子です。

どちらにしてもなかなかの女性ですが、決め手はありません。

岩瀬文庫企画展西尾市史中間報告 その5 [歴史雑話]

岩瀬文庫企画展西尾市史中間報告の続きです。

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後奈良天皇宸翰の般若心経です。

後奈良天皇宸翰の般若心経は岩瀬弥助が京都の古書店から購入したものです。

紺色の紙に金字で書かれています。
三河の一宮の砥鹿社に収められたものでしょうか。

後奈良天皇は疫病の流行に心を痛めて諸国への般若心経の奉納を思い立ちました。
奉納の際は諸国の領主への関与を求めていて、地方の大名から朝廷への献金の契機とされたという説が末柄豊教授から発表されています。

後奈良天皇はいますが、実は奈良天皇という天皇はいませんでした。

後醍醐天皇は醍醐天皇の治世を理想として、醍醐天皇の名をもらい後醍醐天皇と名乗りましたので、後〇〇天皇は、〇〇天皇がいたように思っていたけど、そうではなかったのですね。

後奈良天皇の奈良というのは平城天皇のことだったそうです。

平城天皇の別名が奈良だったようです。

ところで、8月7日に西尾市岩瀬文庫に皇太子殿下の行啓があり、三河新報によるとこの後奈良天皇の宸翰をご覧になるそうです。

岩瀬文庫企画展西尾市史中間報告 その4 [歴史雑話]

岩瀬文庫企画展の続きです。

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御剣八幡宮の鰐口です。

永禄7年(1564)に西尾城主となった酒井正家が奉納しました。

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従来は「西尾」の名の由来はこの鰐口に書かれた西尾の字により永禄7年に西尾城主となった酒井氏により西条城から西尾城になったとされていました。

ところが、年不詳10月23日付けの今川義元に「西尾城」の文字があり、この文書は義元から荒川某に宛てたもので、内容から弘治元年(1555)と推定されるので、西尾の始まりが10年遡った。



岩瀬文庫企画展西尾市史中間報告 その3 [歴史雑話]

岩瀬文庫企画展の続きです。

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寺部城の測量図です。

寺部城は西尾市寺部町にあった中世城郭です。

小笠原氏の居城と言われていて、市の指定史跡です。

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浅野文庫諸国古城之図の寺部城絵図です。

測量の結果、絵図とよく地形が合うことが判明しました。

説明です。

寺部城の防御の要は急勾配の切岸にあり。
主郭の北は逆L字の土塁が見られる。寺部城の特徴の主郭東の大堀切は、主郭土塁までの切岸の比高を形成するために普請された。浅野文庫絵図と形状が一致する。

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説明文です。


岩瀬文庫企画展西尾市史中間報告展 その2 [歴史雑話]

岩瀬文庫特別展の続きです。

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中之郷古墳(西尾市寺部町)出土の形象埴輪です。

以下は説明です。

石見型埴輪は奈良県石見遺跡出土品を標識遺物として命名された形象埴輪で、円筒部の左右に年度板を貼りつけて盾のような形をしている。

石見型埴輪は古墳時代後期に近畿地方を中心に盛行し、権威の象徴として用いられた儀仗を模した埴輪とされる。

中之郷古墳の石見型埴輪は古墳時代中期後半のもので、大阪地域以外ではほとんど類例がない遺物である。

当時の古墳時代の主は三河湾の海上交通を押さえ、中央政権と特別な関係を有していたと考えられる。


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