富士・沼津・三島市博物館共同企画展 [お城情報]

少し前ですが、富士・沼津・三島市博物館共同企画展「駿東・北伊豆の戦国時代」を見てきました。

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沼津市明治史料館の展示です。

駿豆争乱 国境の攻防です。

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史料館の前には江原素六の胸像があります。

麻布高校を設立したことでも有名です。

江原素六の祖先は江戸の初期に幡豆郡江原村(現西尾市江原町)の出で家康に仕えて関東に移ったとも言われます。

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三島市郷土資料館の展示です。

北条五代と山中城

写真は山中城です。

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袋城の図です。

静岡市にありました。

城主は北条美濃守氏規 家臣大見戸塚南條山中とあります。

半円形で特徴的です。

海に向かって虎口が開いています。


C58 [鉄道]

C58です。

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三島市に展示されています。

C58です。

Cというのは、動輪の数でCは動輪が3つと言う意味です。

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三島市の楽寿園に展示されています。

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運転席です。

沢山のバルブがあります。

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先頭には日の丸が掛けられています。

光長寺 [寺院]

光長寺は静岡県沼津市にある寺院です。

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山門です。

別名仁王門です。

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仁王様と草鞋

大きな草鞋です。

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参道です。

両脇には塔頭が並びます。

光長寺は法華宗本門流の総本山です。

本山だけに大きな寺院です。

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本堂です。

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庫裏の玄関です。

唐破風です。

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境内図です。

これを見ても大きな伽藍だったことがわかります。

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塔頭の辻の坊には沼津城の城門が移築されています。

沼津城の移築門 [移築城門]

沼津城の門が沼津市内の光長寺に移築されています。

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これがその沼津城の門です。

意外と小さな門でした。

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門扉です。

こちらも新しそう。

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ここは光長寺の塔頭のひとつ辻の坊です。

説明によると沼津城の中庭の門を移築したようです。

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門は薬医門です。

柱の一部などは新しく、部材も変わっているようです。

小振りなのは伝承とおりに中庭の門だからでしょうか。

中庭と言う表現がいまひとつどこなのかわかりませんが、屋敷の門だったのかもしれません。

沼津城 その2 [お城踏査]

沼津城の続きです。

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川廓通りです。

沼津城の郭が由来となった川廓通りです。

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現在の川廓通りです。

近年整備されたものです。

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沼津城下の絵図です。

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近くに移築されている三枚橋城(沼津城)の石垣です。

発掘調査で確認されたものを移築しました。

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沼津市のマンホールです。

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三枚橋城の絵図です。

丸馬出と角馬出、内桝形虎口があります。

武田左馬助、真田安房守、今福浄園の名があります。

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別の三枚橋城の絵図です。

丸馬出と角馬出が書かれています。

しかし前の絵図とは丸馬出と角馬出の位置が逆になっています。

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別の絵図です。

こちらも城の形は違います。

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こちらは近世の沼津城です。

新たに築かれた別の城ですが、丸馬出と角馬出が同じ位置に作られています。

(終わり)

沼津城@静岡県沼津市 [お城踏査]

沼津城は静岡県沼津市にあった近世城郭です。

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石碑です。

本丸跡にあります。

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説明です。

沼津城の前身は天正7年(1579)に武田勝頼が築いた三枚橋城です。

慶長18年(1613)に廃城となりました。

その160年後の安永6年(1777)に水野忠友が沼津城を築城しました。

明治維新後に城は取り壊されました。

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本丸跡は現在中央公園になっていますが、城の面影は全くありません。

江戸時代のお城で近代に破壊されて遺構の残らない城は全国で長岡城、古河城、尼崎城、高槻城などがありますが、沼津城もこれらに負けていません。

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しかし、市内のあちらこちらに城の説明板などが建てられています。

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沼津城の絵です。

三重の櫓は天守です。

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沼津城の縄張りを現地形に投影したものです。

(続く)

けんせいの柏餅 [四方山話]

端午の節句です。

けんせいの柏餅です。

毎年端午の節句にはこの柏餅を食べるのが恒例になっています。

このけんせいの柏餅は、茶色です。

たかきびという植物を使っています。

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たかきびは、血液をサラサラにする効果もあるそうです。

買ったのはいつも買っている下記のお店です。

発売元
清香軒
愛知県岡崎市羽根町若宮17-16
℡ 0564-51-0390

興国寺城@静岡県沼津市 [お城踏査]

興国寺城は静岡県沼津市根小屋にある中世城郭です。

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本丸です。

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石碑です。

初代城主北條早雲と刻まれています。

北条早雲が初めて城主となった城です。

早雲ははじめは伊勢新九郎長氏といい、今川義忠の側室となった妹を頼り今川家に身を寄せていましたが、義忠の死後、今川家の相続争いで功をあげて興国寺城を与えられました。

その後、駿河、甲斐、伊豆の境目に位置するため、今川氏、武田氏、北条氏の争奪戦になり、城主は猫の目のように目まぐるしく変わりました。

武田氏滅亡後は徳川氏の城となり、牧野康成が城主となりました。

徳川氏が関東に移ると、中川一氏の家臣の河毛氏が入り、関ケ原合戦後は天野三郎兵衛康景が入りました。

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浅野文庫の興国寺城絵図です。

馬出があることから武田氏の手が入っていることがわかります。

発掘調査でも丸馬出が確認されています。

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天守台の石垣です。

興国寺城は基本、土の城ですが、天守台にのみ石垣が使われています。

石は張り付けた感じで、隅も算木積みになっていません。

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天守台は河毛氏の時代に作られたと考えられています。

天守台には礎石も残っています。

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本丸の大土塁です。

土塁の上に天守台があります。

天守台をわざわざ作ったというよりも、もともとあった土塁の上に天守を建てたみたいです。

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天守台から見た本丸です。

広大です。

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本丸背後の大堀切です。

まさに大堀切です。

堀はカーブしていて見通せなくなっています。

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二の丸から見た本丸です。

本丸と二の丸の間の堀は埋められています。

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興国寺城の整備計画図です。

国指定史跡です。

日本城郭協会が選定した続100名城に選定されました。

樋代官長屋門 [移築城門]

樋代官長屋門です。

樋代官所は、静岡県富士市厚原にありました。

植松家が代官を務めました。

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長屋門です。

間口15.1m、奥行4.57mです。

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代官所の長屋門らしく格式あるものです。

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長屋門の出窓です。

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長屋門の門扉です。

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長屋門の平面図です。

門内の部屋は、下男・番人小屋と味噌蔵に使われていました。

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代官の植松氏の屋敷も移築されています。

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説明です。

上田原古戦場 その2 [歴史雑話]

上田原古戦場の続きです。

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上田古戦場公園になっています。

でも野球場や多目的グランドになっています。

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古戦場の説明もあります。

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板垣信方の墓です。

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板垣神社になっています。

神社は質素な神社です。

板垣信方の墓をご神体として鳥居を立てただけの神社です。

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板垣信方の墓が神体です。

信方がタバコが好きだったので、墓前に煙草を供える人が多いです。

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説明です。

板垣駿河守信方は武田信玄の重臣です。

天文11年、諏訪攻略の副将となり、諏訪郡代になりました。

信方は上田原合戦でこの下之条付近で討ち死にしました。

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真田丸の放映で説明板も新調されていました。

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屋代源吾の墓です。

屋代源吾は村上義清の家臣で、屋代城主でした。

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説明です。

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木の下に屋代源吾の墓があります。

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小島権兵衛の墓です。

小島権兵衛は村上氏の家臣です。

看板の上に見える樹が屋代源吾の墓です。

上田原古戦場では戦死地に墓がよく残されています。

特に村上氏の家臣の墓がよく残されているのは、上田市が村上氏の地元の領地であったせいもあるでしょう。

上田原合戦は武田信玄が大敗した戦いと言われていますが、村上氏の家臣の墓も多くあることから、村上氏もかなりの痛手を被っていたようです。

上田原古戦場が都会ではなく、開発がされていないこともよく残った一因でしょう。

小牧長久手古戦場や桶狭間合戦古戦場では宅地化で雰囲気はほとんど残っていません。

上田原古戦場は雰囲気がよく残された古戦場です。

近くには物見山、合図山、御陣ケ入、御陣ケ原、鉦ケ窪、味方原など合戦に因んだ地名も多く残されています。

(終わり)

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